「“あいみょん”と言葉の技巧」①
はじめに
シンガーソングライター・あいみょんの歌詞は、言葉の技巧を多く用いているという点で、優れていると言える。しかし、私の言う「言葉の技巧」というものが一体何なのか、まずはそこから説明したい。
「今日はちょっと早いかもゴメン」なんて言われましても
私遅かれ早かれ後悔するから 何でもいいよ もう何でも
どうでもいいよ もうどうでも ズタズタになってボロボロになって
どっかの公園の隅にでも捨てて下さい
愛されたい 愛されてみたい
愛されて 愛してみたい
(あいみょん 『朝陽』)
これは、あいみょんの『朝陽』という楽曲の歌詞の一部である。この楽曲は、恋人の男性から、彼にとって「都合の良い女」として扱われている女性の胸の内を綴った作品である。この内、引用した部分では、男性の都合に付き合わされる語り手の苦悩が描かれている。引用部分の中の、「今日はちょっと早いかもゴメン」という会話は、恋人の男性の台詞である。しかしここで、私は、語り手が自分の苦悩を語っている言葉の論理の中には、実は一つの言葉遊びが組み込まれていることを指摘したい。
その「言葉遊び」とは、具体的には、「今日はちょっと早いかもゴメン」の「早いかも」が、「遅かれ早かれ」という言葉を導き出していることを指す。「今日はちょっと早いかもゴメン」は、待ち合わせの時間のことに言及している。それに対し、「遅かれ早かれ後悔する」というのは、「男性と付き合うと毎回後悔する」という内容を表している。つまり、本当は論理的には繋がっていない二つの事象を、あたかも繋がっているかのように並べているのである。その際に、「早いかも」という語に、「遅かれ早かれ」を、同じ言葉だからという理由で導き出させるという手法が用いられているのである。
このように、この『朝陽』の歌詞が描き出しているのは、自分の都合に女を付き合わせるという男の側のエゴを、女である語り手が嘆く、という光景であるが、その嘆きの具体的な論理そのものは、言葉遊びによって構成されていると言えるだろう。
ここで、このあいみょんの歌詞と比較するために、他のアーティストの楽曲の歌詞を引用したい。
今 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は
自分の声を信じ歩けばいいの
大人の僕も傷ついて眠れない夜はあるけど
苦くて甘い今を生きている
(アンジェラ・アキ 『手紙〜拝啓 十五の君へ〜』)
これは、アンジェラ・アキの『手紙〜拝啓 十五の君へ〜』の歌詞を一部抜粋したものである。結論から言ってしまえば、このアンジェラ・アキの歌詞は、あいみょんの歌詞とは違って、特に優れているとは言えないと、私は考える。
だが、私は、『手紙〜拝啓 十五の君へ〜』が、全く見所のない、誰の心にも引っかからない歌であるとは考えていない。この歌は、私自身聴いていると確かにジーンと感動するし、励まされる感じがする。それは、私がこの歌に自分の辛かった経験を投影しているからだ。つまり、この曲は、人々の経験を介在することによって、人の心に感動を与えるタイプの楽曲なのである。
アンジェラ・アキの歌詞が、多くの人が感じている感情をなぞることによって、人々の経験に訴えかけ、共感を誘う表現なのに対し、あいみょんは、人の実感から離れたところで、斬新な表現を追い求めようとしている。私の心を強く打つのは、この後者の表現である。このような言葉遊びの表現を、私は「言葉の技巧」と呼びたい。そして、あいみょんの歌には、そのような「言葉の技巧」が、無数に並んでいる。
ちなみに、アンジェラ・アキの「苦くて甘い」という歌詞を、「言葉の技巧」であると考える人もいるかもしれない。しかし、自分の何らかの体験について、これは「苦くて甘い」経験である、と感じる人は、全くいないわけではないだろう。「今日はちょっと早いかもゴメン」が「遅かれ早かれ」を導き出す、という手法そのものが、人々の経験に訴えかけるタイプのものではないのに対し、この「苦くて甘い」は、実感を伴った表現であると言える。あいみょんの歌詞のように、人の心に訴えかけるというよりも、むしろ頭脳に訴えかけるような理知的な表現を、私は「言葉の技巧」と呼んでいる。
人の心に訴えかける歌詞が溢れる世の中にあって、理知的な表現を生み出すことで、通常の表現から抜け出そうともがき続けるあいみょんの試みは、極めて挑戦的な姿勢を伴っている。そうした意味では、あいみょんは稀有な存在であるとさえ、私は思っている。他のシンガーソングライターとは一線を画し、走り続けるあいみょん——。そのような彼女の挑戦について、「“あいみょん”と言葉の技巧」と題して、これから詳しく考察していきたい。