「物語」の新たな役割とは —左川ちかの詩「1.2.3.4.5.」について—
今回は、詩人・左川ちかの詩「1.2.3.4.5.」について見ていきます。
1.2.3.4.5. 左川ちか
並木の下で少女は緑色の手を挙げてゐる。
植物のやうな皮膚におどろいて、見るとやがて絹の手袋を脱ぐ。
この詩の内容は、比較的理解しやすいと思われます。並木道で、一人の少女が「緑色の手」を挙げていました。それをどこかから眺めていた語り手は、驚きます。少女の手が、まるで「植物のやう」に緑色だったからです。しかし、次の瞬間、少女は「絹の手袋」を脱ぎ、人間の皮膚を顕します。「植物のやうな皮膚」に見えたものは、実は「手袋」だったのでした。
以上がこの詩の内容ですが、難解なのはこの内容ではなくて、むしろこの詩のタイトルです。「1.2.3.4.5.」とありますが、この数字の羅列は、この詩の内容と一体どんな関係があるのでしょうか。
それについては、次のように考えられます。「1.2.3.4.5.」というタイトルの中の数字については、これらを序数詞であると想像することができます。序数詞ということはつまり、番号としての性質を具えているということです。つまり、ここでは、例えば、「1秒、2秒、3秒、4秒、5秒」とか、「1本、2本、3本、4本、5本」というように、何かが順番に数えられているのではないかと考えられるのです。その「何か」は合計で五つあり、それを一つ目から数えているのであって、その過程をここでは描写していると言えるでしょう。ですが、ここでは、数えられているものが一体何なのか、ということは重要ではありません。そうではなく、「数えている過程」を描いていることが重要なのです。
ともあれ、この詩のタイトルでは、合計で五つあるものを、一つ目から順番に数えるという行為を描いていました。これは、この詩の内容と関係しています。なぜなら、この詩の内容は、先ほど見た通り、「植物のやうな皮膚」に見紛えた少女の「緑色の手」が、実は「絹の手袋」であったことに気づく、というものでした。ここでは、実は「絹の手袋」だったという真相を掴むまでの過程の部分が、物語として機能しているわけです。言い換えれば、始めから、「少女は絹の手袋をはめていた」と結論を言ってしまうと、この物語は成立しないことになります。「1.2.3.4.5.」というタイトルも、実は同じことをしていて、合計で五つある、という結論を言ってしまわないで、その五つのものを順番に数えていく過程が取り上げられていると言えます。このように、「結論に至るまでの過程」を描いている点で、この詩の内容とタイトルには響き合うものがあると言えます。しかしながら、その描き方は、それぞれ異なっているのです。
まず、タイトルの場合のように、物を数えるという行為においては、私たちは、結論を優先します。例えば、誰かに「花瓶の花が何本ある?」と尋ねる場合には、「五本」という答えが即座に返ってくることを期待し、「一、二、三、四、五……」と数えている過程については特に知りたいと思いません。一方、詩の内容の場合のように、「植物のやうな皮膚」かと思ったら実は「手袋」だった、という物語は、「植物のやうな皮膚」と誤解する箇所を飛ばしてしまったら、話が成り立ちません。言うまでもなく、この物語の面白さは、誤解、つまり真相に辿り着くまでの過程と、真相との落差にあります。そして、この詩の内容だけではなく、大方の物語というものは、この過程と結論の落差によって形作られているものです。
つまり、タイトルのように物を数える場合において、その「過程」が軽視される一方で、この詩の内容のように「物語」が展開される場合には、「過程」というものが重視されるのです。このように、結論を重視するという人間の文化の中にあって、物語というものは、「過程」を重要視しなければ成り立たないという性質を持っています。この詩を通して、作者は、「物語」の新たな役割を私たちに気づかせたいと思ったのではないでしょうか。