「“あいみょん”と言葉の技巧」⑤
第四章 あいみょんの歌詞はレベルが高いか
これまで見てきたように、あいみょんの歌詞には、「言葉の技巧」というものが、多く登場する。しかし、彼女の歌詞が、本当にレベルが高い表現であるかと問われれば、私は「そうではない」と答える。その理由として挙げられるのは、「あいみょんの歌詞は、実のところ、ただの言葉の装飾にすぎない上、真に深い問題提起をしているわけではないから」というものである。
このことが事実であることを示すために、あいみょんの歌詞を、現代詩の作品と比較したい。
まず始めに、詩人・山崎るり子の「僕のおばあさん」という詩を紹介する。これは、「おばあさん」という語の持つある性質を見事に掴み取った作品であると言える。
おばあさんはニャアと鳴く
歯のぬけたトンネルの口を
光の方に向けて
ニャアと鳴く
しわの中で 目が細くなる
夏 家の中の
一番涼しい場所で
おばあさんは ニャアと鳴く
おばあさんはツメを立てる
カッととつぜんするどく
お母さんの手から
血がこぼれる
僕はピアノで
ネコふんじゃったを ガンガンひく
おばあさんは一日中
とろとろねむる
うす目を開けて
ごろごろのどをならして
冬 家の中の
一番暖かい場所で
おばあさんは とろとろねむる
僕はいつも
そおっと 歩く
(山崎るり子 「僕のおばあさん」)
この詩の中に登場する「僕のおばあさん」の正体は、ネコである。語り手である「僕」は、自分の家で飼っているネコのことを、「おばあさん」と呼んでいるのだ。なぜなら、語り手にとって、「おばあさん」という語の定義は、“歯が抜けていて、しわの中で眼を細め、夏は家の中の一番涼しい場所にいて、冬は一番暖かいところにいる、そして一日中とろとろ眠る生き物”というものだからである。この定義は、老婆の性質をよく捉えているが、これには偶然、ネコも含まれてしまうのである。
注意してほしいのは、詩人の井坂洋子が指摘するように、たとえどんなに高齢の老女がこの詩を読んでも、ここで提示される「おばあさん」像を自分のことのようには感じられないだろう、という事実である(『現代詩文庫 185 山崎るり子詩集』所収、井坂洋子「みんないっしょに」より)。だから、この詩の中に登場する、「おばあさん」という語の定義を纏めると、「自分とは異なる不可解な生き物」、つまり“他者”ということになる。
では、この「僕」の「おばあさん」という語の使い方は、ただのつまらない間違いであろうか。私は、そうは思わない。それどころか、「僕」の「おばあさん」の使い方には、ある種の真実さえ含まれていると考える。
なぜなら、「僕」の「おばあさん」の使い方は、世間において、「おばあさん」という語から喚起される、あるイメージを捉えているからだ。老婆が一日中うたた寝をしている姿は、年老いた女性の姿というよりはむしろ、不思議な生き物のそれとして我々の脳裏に焼き付いているだろう。我々は、「なんでそんなに寝てるんだろう」と思いながら、その老婆がウトウトする様子を眺める。その時、老婆は、我々の眼に自分とは異なる存在として映っているだろう。
この詩についてはここまでにして、次は、詩人・谷川俊太郎の「芝生」という詩を引用する。この詩の中では、「我々人間とは、本当は人間ではない何かなのではないか」という問題提起がなされている。
そして私はいつか
どこかから来て
不意にこの芝生の上に立っていた
なすべきことはすべて
私の細胞が記憶していた
だから私は人間の形をし
幸せについて語りさえしたのだ
(谷川俊太郎 「芝生」)
この詩の六行目の、「人間の形をし」という箇所から、この語り手は自分の正体について、「人間ではない何かである」と考えていることが分かる。だが、「人間ではない」のは、実はこの人物だけではなく、我々人間全体もまた、人間ではない存在であると言えるのではないか。なぜなら、我々は、自分に物心がつく前の出来事は、一種の「物語」として親などの他人から教えられるという手段によってしか、知りようがないからだ。親は自分の子供のことを、確かに人間であると証明することができる。そのため、自分は他者のことを人間と証明することができると言える。しかし、自分では、自分自身(自己)のことを、生まれた時から人間であったと証明することはできない。「自分は人間として生まれた」という説を我々が当たり前に信じているならば、「自分は物心がつく前は人間ではなかった」という説を信じることもできるはずである。この詩の語り手は、このような考えを背景として、「私は実は人間ではない」というような主張をしているのだ。
ともあれ、「我々人間は皆、元々は人間ではなかったのかもしれない」という問題提起、言い換えれば、「人間という概念は、実は、自己と他者の関係性の中で生まれる流動的な観念であるのではないか」という問題提起が、この「芝生」の中には存在していると言える。
このように、「僕のおばあさん」においても、「芝生」においても、そこでは社会に流通している定説を覆すような、一つの新しい考え方が含まれていると言える。
一方、あいみょんの歌詞には、このような新しい考え方は存在しない。彼女の言葉の技巧は、何か一つの考えを伝えるために用いられているわけではなく、あくまでもただの装飾にすぎないと言える。
しかし、あいみょんの技巧が、たとえただの装飾であるとしても、彼女のようにそれを極めようと試みているアーティストは、J-POPというジャンルの中ではあまりいない。だから、あいみょんの存在はその意味ではかなり稀少であるとも言える。