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ヒロトとマーシーは熱い人間だから一人なんだ

 ヒロトとマーシー。本名、甲本ヒロトと真島昌利。日本の伝説的なロックンローラー。ブルーハーツ、ハイロウズというふたつのバンドを経て現在クロマニヨンズというバンドで活動している甲本ヒロトと真島昌利は、平たく言ってしまえば運命共同体である。ただし、永遠に交わることのない。

 所属している出版サークルのフリーペーパー内の企画で、「このふたりがアツい!」というものがあった。憧れや友愛、絆や共依存といった、恋仲に限らない多様な関係のふたりを小説や漫画、映画などの登場人物、または実在の人物から取り上げてコラムを書こうという企画で、この文章は元々そのために「平行線のふたり」というタイトルで2年前に書いたものである。

ふたりの繋がり

 ヒロトがボーカル、マーシーがギター(とたまにボーカル)。1985年、ふたりはブルーハーツのメンバーとしてデビューを果たす。リンダリンダ、TRAIN-TRAINといった楽曲を次々に発表し、若者を中心に絶大な人気を博した。1995年に解散するも、その後結成したハイロウズでも日曜日よりの使者、青春などの名曲を生み出す。そして2006年、3つ目のバンド、クロマニヨンズを結成。2022年現在も精力的な活動を続けている。これがふたりのざっくりとしたキャリアである。

「このふたりがアツい」と聞いて、真っ先に彼らが思い浮かんだ。理由のひとつは多分至極単純で、ふたりが共にした時間の圧倒的な長さだと思う。なんて言ったって38年目の仲だ。37年間、互いが互いの人生にいなかったことはなかったのだ。

双方が半々の割合で作詞作曲するスタイルを37年間貫いている彼らは、全時代を通してバンドの両輪。何より決して短くない時間を共にロックンロールに捧げてきた同志として、互いが持つ世界や価値観を否が応でも共有してきたのだろう。そんなふたりの繋がりが窺える会話を引用する。


甲:僕は歌詞について字面で議論するというのは、とてもナンセンスだと思います。
真:はい。そこにその人が本当に言いたいことだとか、もっと大きく言えば、この世の真実だとか真理などというものは、ないということですね。歌詞はただ歌詞であると。(中略)あのう、真実とか、真理とかいうものは、暗い夜空にひときわ輝く月のようなものなんです。そして文字や言葉というのは指なんです。
甲:なるほど非常によくわかります。
真:ええ、指でさすことができます。月の…月のありかを“あそこに月があるよ”。ねえ、だけど、指なんです。
甲:だからこれは。
真:月じゃないんです。
甲:その指だけを見るな。と。
真:そういうことです。指を見て、“おお、きれいな月だねぇ”とはふつう言いません。

ハイロウズファンクラブ会報『FAN-JET』vol.001

 

こんな奇跡のキャッチボールを交わした彼らも当然、別の人間である。というか性格や作る曲は真逆とも言える。

まず、ヒロトは陽で、マーシーは陰だ。所謂スクールカーストにおけるポジションではなく、もっと根本的なパーソナリティーの属性、より具体的に言えば、感情の発露の仕方の問題である。陽性・陰性と言った方が近いかもしれない。
たとえば誰かにひどく腹を立てたとき、ヒロトはその憤りをあらわに相手にぶつけるが、マーシーは背中で怒りを表明し、無言でその場を立ち去る(と思う)。

音楽性も結構違う。ヒロトの曲はパンクロックの王道をいく曲調であることが多く、歌詞は(歌詞への言及は先述のヒロトの発言に反するが)、論理の飛躍(「ドブネズミみたいに美しくなりたい」など)的描写の中に哲学を滲ませつつも、基本的にはストレートな表現が大半を占める。

一方マーシーはヒロトに比べてバラードやアコースティックな楽曲を作るし、ハックルベリー・フィンやヴァージニア・ウルフといった固有名詞や巧みな比喩を用いた歌詞(「ハチミツの雨」、「銀紙の星」)は実に文学的だ。
このようなふたりの違いは、各バンドの楽曲群に少なからず奥行きを与えている。

けれどふたりはどこか似ている。
ふたりとも、途方もない狂熱と、そこから来る孤独を胸に生きているように私には見える。このあたりがおそらく「このふたり」と聞いて真っ先にヒロトとマーシーが浮かんだもうひとつの理由なのだが、ここを掘り下げるには双方のロックとの出会いについて触れなければならない。

ふたりは一人

ヒロトは中学1年の頃、ラジオから流れてきたマンフレッド・マンの「Do Wah Diddy Diddy」を聴いたことを音楽の原体験として挙げている。それ以来彼はロック一色の人生を歩むわけだが、その衝撃は相当のものだったようで、気がついたらボロボロ泣きながら畳をかきむしっていたらしいのだ。

マーシーもビートルズの「Twist and Shout」をきっかけに小6で音楽に目覚め、数日後にはギターを求め楽器屋に走った(ちなみに彼は衝撃を受けたその瞬間、ヒロトとは正反対に、部屋の真ん中で正座したまま固まっていたそう)。

 そしてふたりの少年は自分を感動させた音楽たちの素晴らしさを友人に語るのだ。「この曲凄くかっこいいんだよ!」と。ところが、中1にしてパンクロックに傾倒する音楽少年はそんなに多くない。まずこの段階で仲間がいない。

それに、考えてみてほしい。音楽でも美術でも、泣きながら畳をかきむしりたくなるほど何かに感動したことがあるだろうか?少なくとも、私にはない。好きなものや趣味ならある。きっと多くの人が持っている。でもふつう、ヒロトやマーシーほどには人の心は動かないのだ。「好き」の対象が人によって違うのは勿論、「好き」の限界も人それぞれである。

極端な話「何を好きになるか」が他の誰とも違っていても、「どれくらい好きか」を同じ熱量で語れる仲間がいれば、人の感じる孤独は最小限になるのではないか。どんな嗜好も、抽象化すれば最終的にはある大きさを持った熱だからだ。
しかしふたりの人並外れた感性は、周囲の共感を求めるには鋭すぎた。そうして「何」においても「どれくらい」においても孤立した彼らは、他者と完全に分かり合うことはできない、と青年期初期にして理解したのだと想像する。

 そんなふたりが出会ったときの興奮たるや、人類絶滅後の地球上で初めて生き残りを見つけた級の大きさだったんじゃないだろうか。ヒロトは「俺とマーシーが組めば世界は征服できるみたいな気分だった」と言っているし、マーシーもヒロトとの出会いから程なくしてそのような万能感を覚えたと語っていた。

しかし、彼らは孤独から解放されたわけではない。多分他者との間に100%の理解はない。たとえヒロトとマーシーのような運命共同体だとしても。
それはマーシーがブルーハーツ時代に口にした「全部が全部話が合うわけじゃないからさ、やっぱりそこでも…一抹の寂しさみたいなさ、拭い切れない部分はあったよ」という発言からも窺える。ふたりの人間というのは、反比例のグラフとX軸のようにどこまで行っても平行線なんだろう。

それでも、ヒロトはマーシーに、マーシーはヒロトに出会えた。お互いとの邂逅の前後を並列には語れないはずだ。

人は“限りなく理解者に近い”存在と巡り合ったその瞬間から軌道を変える。あるいは、それはひとりではないかもしれない。絶対的な相棒でなくとも、数々の出会いからピースを拾い集めたっていい。孤独という奈落の底への落下はすれすれのところで軌道を変え、低空飛行になる。

ふたりの人間は、反比例のグラフとX軸のように、平行線で歩き続ける。落ちることなくどこまでも。


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ブルーハーツ時代の名曲「TOO MUCH PAIN」がこの文章の主題そのものなので引用させてください(そのものというか当然TOO MUCH PAINが先)。

はみだし者達の遠い夏の伝説が
廃車置場で錆びついてらあ
灰色の夜明けをただ黙って駆け抜けて
あなたに会いに行けたらなあ
思い出す月明かりに濡れた
人気のない操車場で
それぞれの痛みを抱いたまま
僕等必死でわかりあおうとしてた
歯軋りをしながら
あなたの言葉がまるで戦慄のように
頭の中で鳴っている TOO MUCH PAIN

THE BLUE  HEARTS「TOO MUCH PAIN」


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