この頃のルッキズムについて思うこと
この頃のルッキズム、外見至上主義は度を超えているように思う。
健康を害するほどのダイエット、高額な美容医療、自分の思う”美”からはみ出している人に対する、罵詈雑言。
多様性が叫ばれる現代で、なぜか外見の評価は、どんどん画一化してきている。顔を詳細に分析し、「客観的な」美しさを発信し、美しさは努力、さらには人間性の表れなのだと、声高に叫ぶ。
自身の外見を「客観的に」捉え、必要な努力を怠らない、そんな人物像が、絶対的なロールモデルとして広く受け入れられているのだ。
また、その傾向は、女性に顕著である。
これは、世の女性たちが、男女平等を叫びながら未だに「選ばれる側」から抜け出せていないことを意味しているのではないだろうか。
多くの時代や地域において、男性は選ぶ側、女性は選ばれる側の性である場合が多い。一夫多妻が最もシンプルな例である。
現代においてもその刷り込みは、至る所で現れている。
例えば、婚活パーティーでは女性が一か所にとどまり、男性が女性たちの間を回る。あくまで動くのは男性である。さらに婚活市場において奇妙なのは、男性が「買い手」、女性が「売り手」であることが既定事項であることだ。たとえ多数の男性が少数の女性を巡って争おうとも、あくまで「売り手市場」になるだけであって、女性が選ぶ側に回ることはない。
さらに身近な例では、浮気された時の対応が男女で異なることがある(ここでは男女のカップルを想定する)。女性が浮気をすると、男性はその浮気をした女性本人を責める場合が多い。しかし、男性が浮気をすると、女性はなぜかその男性自身ではなく、浮気相手の女性に敵意を向けるのだ(もちろん例外も多々あろうが)。その違いを生み出すのは、女性の客体意識の強さである。自らが選ばれる側にすぎないから、「選ぶ側」の男性を責める発想が浮かばない。顧客が他の企業にとられたからと言って、そのライバル企業を差し置き、客を非難するのがあり得ないのと同じである。
本題のルッキズムに戻ろう。
私は、ルッキズムの問題を引き起こしているのが、女性の客体意識、そして自らの客体意識に対する無自覚さにあると思う。
行き過ぎたルッキズムの目的は、当たり前だが、自身の容姿をアピールすることにある。容姿をアピールし、誰かに(男性とは限らない)選ばれたいからこそ、執拗なまでに見た目の「模範解答」を探し、それに近づこうとするのだ。
さらにややこしいことには、それを「自己実現」と捉える向きがある。
正しい目標に向かって、正しい努力をする。それは一見、人として素晴らしいことに思える。しかし、他人の決めた「正しさ」に縋ることが、どうして自己実現だと言えよう。
本来の自己実現は、自分が望む道をひた走り、それが自然と他者への貢献となることを言う。目標を他者に委ねるのではなく、自身の欲求に従って選ばなければならない。
以上のことから、ルッキズムとは、「選ばれる」意識が凝縮した結晶だと言えるのではないだろうか。とても幸福を呼び込む代物とは思えない。
自戒も込めて、私たちは、自分で選びとる主体性をもっていることを、再認識するべきなのである。