焦がれ続けた夢、叶う瞬間の静寂
夢が叶う瞬間はいつも静かだ。叶うまでは、そわそわしたりどきどきしたりするのに、夢が叶う瞬間はいつも心がしんと静かなのはなぜだろう。
■15年近く好きなひと
先日、私の人生の夢がひとつ叶った。夜の下北沢で。かれこれ15年近くファンの作家・江國香織さんに会いに行くという夢が。本屋B&B主催の江國さんの新刊『彼女たちの場合は』刊行記念のトークショー。
熱狂的にすきな作家やアーティストがあまりいない私。でも江國さんは別。どのくらいすきかというと、江國さんの長編小説やエッセイは大体読んでいるし、10代後半の読書時間の1/3くらいは江國さん作品に費やした。すきになったきっかけは『冷静と情熱のあいだ』。そこからどハマりして、江國さんのいろんな作品を繰り返し読んだ。
『きらきらひかる』、『薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木』、『神様のボート』、『スイートリトルライズ』、『金平糖の降るところ』、『泣く大人』、『泣かない子供』、『いくつもの週末』…。タイトルからして美しいし、流麗な文体に何度もうっとりした。エッセイの中では『泣く大人』がとりわけお気に入りで、以前noteでも紹介している。
■見続けた夢、叶うとき
『冷静と情熱のあいだ』を読んでからずっと行きたいと思っていたフィレンツェにも足を運んだ。映画化もされているこの作品のサントラをiPodで聴きながら街中を歩き回り、ドゥオモにももちろん登った。
不思議なことなのだけれど、ずっとずっと夢見てきたフィレンツェのドゥオモの頂上に着いたとき、私の心のなかはしんとしていた。それまでずっと焦がれていた気持ちが嘘みたいに。
江國さんのトークショーに参加するため、下北沢駅に降り立ったとき、私はフィレンツェのドゥオモに登ったときと同じ感覚に襲われた。当日まで、そして当日下北沢駅に着くまではあんなにどきどきしていたのに、着いた瞬間、心は凪のようになった。
「ああ、叶うんだな」
静かにそう思った。
■思っていたとおりのひと
トークショーは江國さんと翻訳家の柴田元幸さんの対談形式で始まった。新刊『彼女たちの場合は』にまつわる様々なお話−登場人物たちの名前の付け方、「おとな」のこどもっぽさと「こども」のおとなっぽさのこと、アメリカという国について、従姉妹と姉妹の関係の違いのことなど−を、オーディエンスからの質問も取り入れながら、トークは進んでいく。
江國さんも柴田さんも、言葉を正確に扱おうとする方だった。自分が表現したいことをきちんと表現するために、言葉を吟味して、時には何度も言葉を探して。その場しのぎではない言葉。江國さんは江國さんの作品通りの方だった。
トークの途中には江國さん・柴田さんによる朗読もあった。江國さんは新刊から、柴田さんは翻訳中の作品から。朗読。担い手による、作品の朗読。紙の上のインクの羅列が一気に血肉を帯び、空気を震わせ、ひたひたと体の中に染み込んでくる。それは不思議な感覚だった。
■始まりの場所で出会う
イベントの最後はサイン会の時間。私は持参した2冊−『冷静と情熱のあいだ』と『彼女たちの場合は』−どちらにサインをお願いするか、迷いに迷ったのだけれど、結局『冷静と情熱のあいだ』にサインをお願いすることにした。初めて出会った江國さん作品だったし、何より「あとがき」に、「晴れた日の下北沢で、この、いっぷう変わった小説計画は生まれました」とあったから。それから長い時間を経て、下北沢で江國さんと出会えるなんて、なんだか運命的。そう思ったから。
順番が来て、江國さんに本を差し出す。
「わあ、懐かしい。すごく読み込んでくださってる感じがします。」
フィレンツェにも行ってきたのだというと、江國さんは私にこう尋ねた。
「フィレンツェ行かれたんですね。どうでした?」
私は答えた。
「よかったです。行ってなんだかすっきりしました」
江國さんは軽く微笑んだ。
「よかった」
静かに満たされた気持ちで私は店を出た。江國さんの特徴的で愛らしい直筆のサインが入った『冷静と情熱のあいだ』を抱えて。夢に向かって情熱的に焦がれていた時間と、その夢が叶った瞬間を至極冷静に感じていた時間の両方をまとって。