慣れと理解とうるせえうるせえ 23/11/30
車の運転と、日記を続けることに対して慣れてきた。
余力はあるから、書きたいことを書く。
免許合宿中も、音声通話中のネット友達とチャットで会話をすることがある。
こちらから喋れはしないが、相手側も基本的に複数人だから変に気負わず冗談が言える。
なぜこれを最初に書いたかって、全てのユーモアと知見を運転に繋げようとしてしまう癖に気づいたからだ。
「これアレじゃん、運転のコレと同じじゃん」とほぼ通じないのに言いそう書きそうになる。
通じないことがわかっているから、実際それにハンドルを切ることはないけど。ほら今もハンドルって単語にハンドルを切った。
急ブレーキとか急ハンドルとかの、違和感を上手く表した例えの実物を知れるのが楽しかった。それを言いたくなってしまっている。
僕はその時その時で一番関心を持っているものを使って話すことが多い。というか最早それしか話せない。
カジュアルなテーマでの文章作品募集で、「アメリカの入学式」というテーマに対し「職を辞めたこと」について書いたことがある。転換転換比喩連想で。
それが最たる例というか、「書きたいかつ読みたいこと」「話したいかつ聞きたいこと」にばかり舵を切ろうとする。
別のエッセイの公募を出した時だって、テーマに沿わせた直近の関連エピソード1件しか応募できなかった。
無理のない自然な会話の流れとして繋がっていれば大したものだが、安全確認と合図のない無理な車線変更は事故のもとだ。
えー……
正しくは「相手に伝わる気配のない話や伝え方は、面白い話にはならない」。安全確認とか事故のもととか言って、使いたいだけの例えで分かりにくくなっている。
直接そのまま伝える言葉よりも比喩が先に出てしまう時がある。表現の方法としてかなり好きだからだ。
この前も親しい人に「伝わんないから二刀流のこと岸田メルって言わない方がいい、お前が悪い」と怒られた。
わからない方は岸田メルで検索して納得してください。反省はしています。
理解の仕方が自分なりすぎて間違って覚えたり、間違ったまま伝えてしまったりする。
説明が極端にうまい時と極端に下手な時があって、きっとそれは聞き手の感じ方が自分に近いのかどうかでしかないと思う。
ADHD診断のちゃんとした検査を受けた時に、「言語理解が低く自分の視点でばかり捉えている」「柔軟な視点で捉えることが難しい」「そのため理解の幅が狭く共通ルールの認識が弱い」と書かれてあった。
知覚推理が飛びぬけて高く、処理速度と言語理解が乏しい。
言われてみれば黒板をノートに板書するなんてのは苦痛だ。
それまで説明が上手な方だと信じていたから、正しさを感じる検査に突き離されて驚いた。中学2年生の時のことだ。
運転の教習も、学び終えるたびに全てイメージに変換していく段階がある。
ブレーキとアクセルはそれぞれ前腿と脛を棒として使い踏んでいくイメージ、押し方はローションのようにニュルっと。
感覚を飲み込む時にも比喩を使う。
だから「スパーンッて」とか「グーッと」とか口で言っちゃうスポーツ人間と合わないのかも。
なるべく普遍的な理解もできるようにしていきたい。
それでもハンドル操作は最初から今まで「ぎゅいーん」としか思ってない。
ダウ90000のネタに「スポーツ」という作品がある。演劇団かつ芸人かつコント集団って感じの人達だ。
ツッコミ役の「恋人ができた」という話題に対して、1対7で好きなスポーツ例え縛りでセリフを投げかけそれが小うるさい、というネタ。
ためにためた一番ピークのツッコミが「うるせえうるせえ」だった。圧倒的爽快感。
ダウ90000は、こういう「小うるさいセリフ」「小うるさいシチュエーション」に溜めカウンターでもしたような「うるせえ!」が気持ちいいネタが多い。全てを代弁してくれる。
そう、その通り。
問題があるとしたら、「うるせえ」というその一点だ。
「伝わらない」とか「小賢しい」とか「回数が多くて鼻につく」とかを全部含めて一言でいうなら「うるせえ」になる。
したがってこういう形で書く日記は、大声を出したい人間におけるカラオケに近いものがある。
そういうストレス発散方法だ。
いっぱいうるさい例えを出して、気持ちよく疲れて眠る。
人と違ったうるささに価値を見出す人がいれば僥倖だし、これ以上に向いている趣味はないとすら思う。
それはそれとして、本当にうるさいと感じている人に例えやジョークを放つべきではない。
最初に書きたかったことに、「日記と運転両方に対しての慣れ」があった。
夕方の時点で書くことがないと感じたあと、「いや部屋出ずにテトリスと麻雀だけしてても何故か2000字書いたことあったし、どうせ書けるか……」という謎の自信があった。
経験則による根拠ある自信は、運転の路上教習でも同じものを感じた。
道路の優先関係を知識として学び行動で実感していくことで、出すべきスピードが身についていっている。
日記も同じ。書くことがなくても一文書けば書けることがわかっていて、とりあえずパソコンの前に座って手を置く。
ただこの日記が習慣として何に向かっているのかハッキリしないことは、続けるにあたって懸念点だ。
とりあえず今は「いっぱい走行距離を稼ぐ」みたいなメモリアル的目標を掲げている。
道が直線続きなら、アクセルをキープすればいい。
加速を継続することで慣性が乗って特にアクセルを踏まなくても進めるのだって、車と日記は同じだ。
あとから振り返って、「ずいぶん遠くまで来たな」って言いたいだけの逃避行かもしれない。かっこよく書けば。
車のCMの、北海道の果てしない一本道のイメージみたい。
……こういうのは、もちろん伝わらないことが多い。
また意味の分からない自分なりの見方を連発してしまった。
これを味として見てくれる人がいるのなら、まだずっと意味不明な例えを発していたい。
カラオケなら、騒いでも楽しめる人と行きたい。
カラオケが「騒ぎ盛り上げるもの」なのか「点数を出し満足するもの」なのかの議論を、ひつじねいりって芸人が漫才にしていた。
ひつじねいりにはこういう不毛な議論ネチネチ漫才みたいなところがあって、たまに見たくなる。
もちろん本質は議論内容ではなく芸の達者さで、これもまた小うるささが…………誰も聞いてないか。
ずいぶん遠くまで来たな。
まだまだ遠くに続いてる。
うるせえうるせえ!かっこつけんな!
こなまるでした。