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日記

最近、日記をつけはじめた。
きっかけはよくあることで、語彙力を高めたいとか、後々読み直して楽しみたいとかそういうものだ。何か劇的なものがあったわけではない。

つけ始めたと言っても、正確には昔つけてた記憶がある。したがってつけ始めたと言うと語弊があるし、そのノートはもう見つからない。

さて、今日起こった出来事を書き留めようと机へ向かった。その辺に雑に横たわった新品同様の出納帳用のノート。外側の厚紙にボールペンをめり込ませながら二重線を引き、日記と改名させる。ふははは、今日からお前は日記になるのだ。

奪った出納帳のアイデンティティを確認すべく、ペラペラとページをくる。…その新品と思われた元出納帳には昔書いたであろう日記があった。日付を見ると2022/3/22とある。書き出しは「今日から日記をつけようと思う」だった。なんだ?一日で終わっているくせに偉そうに。

スルスルと読み返す。なんだか、文章が妙に浮き足立っていることを覚えた。ふわふわとした表現と、言い回しの臭さが鼻につく。

とにかく浮かれていた。
「今日はマフラーをプレゼントしてもらった。可愛いピンクのマフラーだ。似合っていると言われたが、本当にそうなのだろうか不安だ...本当はわかっているのだけどね。」
なんだこの文章…気持ちわりぃ…

心の中のラッパーを押し込めて、全文に目を通す。確かに文章は不愉快だ。しかしそこには確かに幸せがあった。
決してそれを表現する言葉があったわけではない。ただ全ての文字が幸せと言う雰囲気の中にあった。

記憶を辿ると、確かにあの頃のわたしは幸せだった。全てが輝いて見え、自分を世界の中心であると確信していた。そして小さな不幸を大きな絶望だと自己暗示していた人間だった。

文章を書くことは心の顕在化だ。存在しているかさえ怪しい心という概念は、言葉によってのみ観測しうる。そして、日記には当時の気持ちが生の状態でありありと反映・保存されている。

さて、今の私の文章も心の顕現の媒体となっているはずである。あの頃幸せに溺れていた文章は今読み手にどう映っているのだろうか。

他人の幸せに横槍を入れる覚悟、裏から滲む暴力性、ひどく歪んだ自己愛、拭い切れない劣等感。これが正しく反映されているだろうか。

書き終えて日記の文字も心なしか荒んでいるような気がした。また2年後にもう一度読み返してみると面白いのかもしれない。
1枚目のページを切って捨てた。

2024/11/7

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