1.沿革
2.校歌(昭和8年11月制定)
3.東町小学校の設立と当時の様子
1913年11月14日に港区立東町小学校、当時の名称では「東京市東町尋常小学校」の開校式が挙行されました。大正2年のことです。
その当時の学区周辺はどのような様子だったのでしょうか。
東町小学校出身の辻堂真理氏が著した名著、麻布十番 街角物語では下記の描写がされております。
開校式の翌年の大正3年(1914年)4月4日の官報には、下記の記載があります。
ここには「正五位勲三等 坂元 常英 大正元年十月東京市立東町小学校建築費金一千圓寄付候段奇特ニ為其賞銀杯1箇下賜候事」と記載されています。これは東町小学校建築資金として1,000円の寄付をした坂元常英氏に、国から勲章代わりの銀杯が叙授されたものです。
当時の1,000円の価値は、現在では100~400万円に相当するようです。
4.城南読書楼
開校から12年後、大正15年(1925年)に刊行された「東京の史跡」の「麻布区」の項目に、「善福寺の大銀杏樹」などに並んで「城南読書楼阯 東町東町小学校敷地」との記載を見ることができます。
この東町小学校敷地にある「城南読書楼阯」とは何なのでしょうか。
続く記載には「享和年間林述斎が高弟大郷信斎に命じて麻布古川端に教授所を設けさせたその学塾である。」とあります。
少し調べて見ると、戦時中の昭和18年(1943年)刊行の「東京都史蹟名勝天然紀念物」にも同様の記載が見つかりました。
もう少し調べてみます。すると、昭和6年(1931年)刊行の「麻布鳥居坂警察署誌」の「第四章 史跡」の欄にも「城南読書楼趾」の項目を見つけることができました。こちらの方がより詳しく記載されています。
港区教育委員会で発行した港区教育史にも次の記載があります。
享和三年というと1803年。米国の艦艇が長崎にて通商を求めてきた十返舎一九の『東海道中膝栗毛』が出版されたのが前年1802年、ナポレオンが皇帝になったのが翌年1804年です。
今(2023年)から220年前に、東町小学校の地に「城南読書楼」という数少ない幕府直轄の学校があったことになります。
5.城南読書楼を作った大郷信斎
これまでの資料に、城南読書楼は「林述斎が高弟大郷信斎に命じて」設けた、とありました。
江戸幕府老中・松平定信が寛政の改革で行った学問統制である「寛政異学の禁」により幕府の直轄機関「昌平坂学問所」(昌平黌)が設置されたのが寛政9年(1797年)、それを推進したのが林家8代で林家中興の祖「林述斎」です。そして、城南読書楼を作った大郷信斎は「昌平坂学問所」(昌平黌)で林述斎に学んでいました。
また、この大郷信斎は、日本で最初の著述家であり『南総里見八犬伝』を著した曲亭馬琴(滝沢馬琴)が主催した「兎園会」正会員12人の1人でもあり、麻布学究とも呼ばれていたようです。
ここで「林祭酒に學びて」とありますが、祭酒とは大学頭(だいがくのかみ)の唐名で、大学頭とは江戸幕府における官吏養成を担う機関で林家が世襲しており、当時の大学頭は林述斎でした。
大郷信斎はその著した随筆『庚寅漫録』内で、城南読書楼について次のように言及しています。
余談ですが、大郷金蔵が交流のあった曲亭馬琴(滝沢馬琴)の作品に最も多く挿絵を描いた浮世絵師は「葛飾北斎」であり、「城南読書楼」ができたばかりの文化3年(1806年)の春から夏にかけての3、4ヶ月にかけて、北斎は馬琴宅に居候していたそうです。
6.「城南読書楼」は「麻布教授所」へ
城南読書楼に関する各種資料を読み込んでいくと、城南読書楼は「麻布教授所」として幕末まで存在したようです。
7.地図で見る東町小学校
8.戦後の東町小学校復興
9.東町小学校の児童数の推移
以上
作成・文責
港区立東町小学校創立110周年を祝う会
会長
古長谷 聡