発達障害日記1020(死に場所を見つけるために頑張る、の話)
・これは希望の話なんだけど。自分の死に場所を探している。20年くらい先の。
んーと、これはちょっと先の話、20年くらい先のキャリアプランなんだけど、危険な場所で働きたいと思っている。
自暴自棄になっていると思って欲しくないというか・・・ちょっとこの辺、みんなどう考えてるかわかんないんだけど、わたしは、自分が心から、誰かと打ち解けて過ごすことってないんだと思ってて。老後、どこかのコミニュティで穏やかに暮らしているところを想像することができない。
今は、仕事(賃労働)があって、育児がある。これらの目的達成のために、わたしは周囲の人たちと連帯しているのだけど、目的がなくなった時、人とどのように暮らせばいいのか、本当にちょっと見えなくて。
歳をとってどんな風にリタイアしていくのかが見えない。
そしたら、わりと、自分の命を使いたいなあって、そう思うんです。
・で、国境なき医師団の本を読んでいるのですが、60過ぎの方も、キャリアさえあれば就労している方もいるそうで。
長いキャリアが必要な職場だと思うし、わたしの個人の慰撫のために使っていい場所じゃない。
でも、例えばわたしがこれから勉強して、しっかりキャリアを積んで、ちゃんと国連で目的達成ができる人材になって、その上で、命の危険があるところに、若い人よりは率先して行くってことが、できたら嬉しいなって思ってる。
・いずれ、若い人が躊躇して行けないところに行くために、キャリアを積み重ねたい。これは希望の話。
正直、この国で楽しく老人をやる未来が見られない。
それは今の政治のせいもあるのかもしれないけど、わたし個人の特性もあると思う。わたしはそう生まれたし、そう死んでいくのが「らしい」のじゃないかと思う。
とはいえ、なんのキャリアもない人間が突然雇ってもらえるわけがない。今、福祉の勉強をしているので、それで資格を取る。関連の仕事をして、あと、これからでいいので英語も勉強しないといけない。忙しいけど、命を使いたいならそのくらい努力しないといけないと思う。
命を使うために勉強して努力する。それをみんなにやれとはホントに言わない。みんなきっと、そんなことを考えなくても楽しく生きてると思うので。わたしは、そう考えると楽しい。メメント・モリ。
生まれついたこの世はわたしにフィットしてくれなそうだけど、死に方くらいは自分で選べるかもしれない、その上、誰かこの世にフィットしている人を残せるかもしれない。そう思うのはそれは、割と楽しい・・・んだよね。