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旅するシェフ

1、砂と星と

 びゅうびゅうと強い風が吹き付け、その度にあまり頑丈ではない古いテントを大きく揺らすが、シュは動じる事なく寝袋の中でまどろみ、枯れた砂の大地に溶けていくように眠りについた。

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 シュは、去年までイタリアのラツィオの有名なレストランで料理長をしていた。今は友人のつてや紹介で個人のシェフとして雇われており、自称旅する自由なシェフを豪語している。

 歳は40代後半、白髪がうっすらと交じる初老の男である。

 現在のシュは、この雇い主の旅行に同行して2カ月が経ったところだ。

 シュは自分の居場所を自分の中に感じていた。長年務めた調理場でもなく、祖父の代から住んでいるレストランでなく。

 現在は、アフリカ南西部に位置するナミビアの夜の砂漠のどこかでテントを張っている。

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 ナミビアという国名は、世界最古といわれているナミブ砂漠にちなんでつけられてた。ナミブとは、現地の言葉で「何もない」という意味である。

 ご存知の通り、砂漠の夜は気温が低く、とても寒いが、午前12時過ぎの真夜中にしては月と星の輝きが砂に反射し、辺りは明るかった。

 言葉では簡単に「何もない」というが、「何もない」事が美しいという事に、シュはすでに気が付いていた。

「何もない」といわれている世界最古の砂漠には、シュの雇い主である男と、二人の寝息だけが深く濃い青の星空に吸い込まれている。幾度となく、その寝息と星の瞬きが重なり合う。そしていつしか夜は明けていた。

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 シュは雇い主より早く目覚めると、二人分の朝食の支度をするのが自分に課したルールでもあり喜びでもあった。

 今朝も日の出と共に寝袋をたたむと、昨晩のたき木の残りにいつものように火をつけた。まだ空気は静まり返っており、気温はとても低い。吐く息は口から出たとたん地面に落ちて砂に変わるように白くきらきらと輝いている。

 火を付ける事の難しさは、1ヵ月で克服した。シュは器用に小さなマッチ箱を2回程擦ると、柔らかい枯れ草の火口に、そっと赤い色を施した。それは、巣から落ちたキジバトの雛を巣に戻すかのように、両手で優しく包み込み、そっと音もたてずに薪の下に寝かす事から始まる。

 水筒から大変貴重な水をこぼさぬよう、コーヒーポットに注ぎ、火にかけると、食料用品が入っているバッグを覗きこんだ。

 山羊の胃袋で作ったポーチと、ブリキ缶の箱を取り出し、その包みを几帳面に開くと、火にかかっているコーヒーポットに目を向け火の加減を気にする。

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 今朝のメニューは、ダチョウの干し肉とキャベツを煮込んだスープ。マハングという植物から作ったパン。そして、数日前に港町で購入した伝統的な製法で作られるヨーグルトにオレンジなどのフルーツを付けあ合わせたものだ。

 朝食が決まったところでコーヒーポットから勢いよく蒸気が噴き出した。シュの吐く息より強く白く、ピンク色の朝の砂漠に広がると、雇い主の男がのっそりと起きてた。

 食事のメニューは違えど、このタイミングはいつもと変わらない。

「おはようございます。旦那さま」

 と、シュは起きぬけでも聞き取りやすい声の大きさであいさつを済ませ、コーヒーポットを火からおろした。

「おはよう、シュ。 砂漠の朝はとても冷え込むね。 よく眠れたかい?」

 シュの雇い主は寝癖のついた髪をなでながら、少し長めの靴紐を丁寧に結んで言った。

 今回のシュの雇い主は、20代中盤の筋骨隆々な好青年。イングランドなまりの英語を使い、何か疑問があるとすぐに「シュ、これはどういう意味なんだ?」と真面目な顔で質問をしてくる好奇心旺盛な、笑顔の清々しい若者だ。

 そして、有名な資産家の長男らしい。

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 「星があまりにも騒いでいるので、何度となく起こされました。 しかし、悪い気はしませんね」

 と、シュは砂漠の夜を楽しめた事を雇い主に笑顔で返した。

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 「さあ、火の側へどうぞ。 コーヒーがお待ちしております」

 シュは、ホーローでできたカップにコーヒーを注いでから、薪をひとつたき火にくべた。

「シュのコーヒーがなくては、もう目覚める事はできないな」

 両手でつかんだカップに、ふうふうと息を吹きかけながら依頼主は、苦みと酸味と朝焼けを目を閉じて感じていた。
 まず、二人用の鍋に水を注ぎ、火にくべた。雇い主はシュのたったそれだけの流れるような動作に見惚れている。 

そして、いつものように手際よくダチョウの干し肉を薄く切っていく。寒い明け方の気温とは裏腹に、真っ赤に輝くダチョウの干し肉は、朝日を受けて脂肪部分がうっすらと浮き上がっている。よく使い込んだナイフは、堅い干し肉をまるでバターのようにスライスすると怪しく光を帯びた。

 そして、ざくざくと聞こえのいい新鮮なキャベツを一口大に刻むと、荒々しくも繊細に鍋の中に添える。

 塩、コショウ、数種類のスパイスを目分量で振りかけると、無駄な蒸散を防ぐために鍋にフタをする。その間、わずか5分に足らず。

 雇い主は、少し濃いめのコーヒーと、まったく無駄のないシュの料理の手際で目を覚ますと、護身用の小銃に手をかけ、入念に点検を始めた。ここ砂漠では、砂が舞う。それが少しでも小銃の機関部分に入ろうものなら、すぐさま暴発し腕を失いかねない。真剣に、そして心して行う気構えを雇い主は忘れない。

 一方、シュはパンの生地を布袋から取り出すと、手で細長くこね、木の棒に巻きつけ塩を振りかけた。そのパンの棒をたき火の近くの砂に突き刺すと、大きくひとつ深呼吸をする。深呼吸は副交感神経を刺激し、より発想力や観察力を高める効果がある。シュにつられて依頼主も大きな深呼吸をひとつした。

 厚いガラスで出来た小瓶より、酸味の強いヨーグルトを取り出すと同時に、小さな青いリンゴとドライフルーツをより小さく切り崩した。

 最後にそれを混ぜ合わせたところで、スープは美味しそうな湯気を立てて出来上がる。

 それを察知し、小銃の点検を終えた依頼主は、自分のカップとスプーンを小粋に二度鳴らすと、ごくりと大きく唾を飲み込んだ。

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「いい香りがする。 食欲を誘う香りだ」

 シュをせかすようにスープの上で目を閉じ舌舐めずりをする依頼主。

 辺りはパンの焼ける香りと、温かい優しいスープの香り、そして少し酸味のきいた香りを混ぜ合わせた深い味わいのある香りに包まれた。

「さあ、出来上がりました」

 シュの言葉を待っていた依頼主は、小さな包みから塩分の強めなバターをナイフで切り取り、パンの撒きついた棒を砂から抜き出してバターを塗り、溶けるのを待った。

しかし、シュは「その前に感謝をささげましょう」とパンを下ろす仕草をした。

「空腹で感謝を忘れていたわけではないよ、シュ」

 少し恥ずかしそうに依頼主は、はにかんで答える。

「食事に感謝します」

「食事に感謝します」

 お互いの心よりの感謝を、食事たちが受け取ると、二人は止まっていた時間が動き出したかのように、朝食をむさぼった。

「このスープ、ダシがとても風味豊かだ」

 依頼主はスープの上で海のように深いため息をつく。(砂漠の上なので、海というのは、おかしな気もする)

「キャベツも甘みがあるし、歯ごたえも汁気があり舌に吸い込まれるようでしょう」

 シュも、ふうふうとスープを冷ましながら胃に流し込む。乾いた砂に浸み込む朝露のようもあっと言う間に飲み干した。

「このパンは本当にバターに合うな」

 とろりと溶けるバターを下からなめるようにパンにかじりつく。まるでシマウマの足の肉を骨ごと食らうライオンのような依頼主の若々しい食欲を感じた。

「このパンとバターの足わいは、こちらのヨーグルトはより引き立てますよ」

 と、スプーンを舌ではじいてはうなずく。まるで水を掻くようにつついて飲むフラミンゴのようなシュ。

 このような落ち着かない食事を今日も無事迎えると同時に、あっと言う間に用意された一流シェフのフルコースは終焉を迎える。

 シュは依頼主と、朝食を摂ると早々と身支度を始めた。ここ、ナミビアの砂漠も日中と深夜の気温が激しく、現在の涼しい明け方から一変して、昼食ころには摂氏40°Cを軽く越える。

 焚き火にその辺の砂を掛け消火すると、布で綺麗にした食器やランプを大きな口のバッグの決まった場所に丁寧にしまった。

 焚き火の木は黒くなりすすけているが、まだまだ使える事はこの旅で学んだ。

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「さあ、シュ! 歩こう。 賊に襲われる前に」

 雇い主の青年は爽やかに白い歯を見せた。

 シュは荷物を固定する最後の紐を縛りながら、辺りの砂に目をやると

「賊だなんて 旦那様。 ここは、砂漠ですよ」

と笑った。

「広ければ海原も砂漠も同じようなものだ」

雇い主の青年は、とても大らかに育ったようで、時折、清々しい発想でシュを励ます。

「では、参りましょうか。 旦那様」

 2人は磁石をお互いに確認し合うと、南西に足を進めた。

荷物の重さと身体の重さで、乾いた砂に大きな足跡が残る。

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しかし、砂漠では足跡は長く残ることは無く、強く吹く風にすぐにかき消される。

後ろを振り返っても、何も変化が見当たらないので、同じ所をぐるぐると回っている錯覚を受けるばかり。

 ふと

「なあ、シュ。 何で蜃気楼って見えるのだろうか? 」

 雇い主は顔に巻きつけた日除けの大きなストールの隙間から質問した。

「どちらに見えるのですか? 」

 と辺りをきょろきょろと見回した。しかし、シュには蜃気楼が見当たらない。

 「いや、見えないが聞いてみたかったんだ」

 いつもの様に悪びれたそぶりも無く素直な疑問をシュにそっとよこした。

シュは未だに蜃気楼というものを直に見たことが無かったので、ほんの少し肩を落とすと、すぐに胸をはり応えた。

「一定の条件下で、空気がレンズ化して、光の屈折が生まれます」

「それで? 」

シュは落ち着いた様子で続ける。

「その結果、遠くにあるモノが、まるで近くにあるかの様に浮き上がり見えるのです。」

すぐに

「では、蜃気楼は自然界の偶然の産物、巨大な幻影、空気特有の現象というわけか」

ストールと砂で反射する太陽でよく顔は見えないが、雇い主は多分、無垢な表情で恥ずかし気も無く言った。

「その通りでございます」

 シュは同じような嫌味のない笑顔で相槌を打った。

その時である。雇い主がシュの袖を3度小刻みに引っ張った。

「一体いかがしましたか?」

 と深くかぶった革製の帽子を少し上げるとシュは依頼主を見上げた。

「偶然の産物とは、突然なのだな」

 とはるか先の砂の盛り上がった場所を指で指し乾いた息をのみ込んだ。

「旦那様、あれは蜃気楼でなく、目的地ではないでしょうか」

「結局進む方向は変わらないわけか」

 と荷物をどっと担ぎ直すと、砂の中にぼうと揺らいで見える

大きくもあり小さくも見える神殿のような建物に足を向け砂を蹴った。

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 二人を待っていたかのように砂漠の真ん中に浮かび上がるその影は、悠久の時の流れを感じさせる古い寺院が霞んで見えた。

 寺院に着くころには、昇った太陽は傾き、依頼主の少し大きめな水筒の中身が干上がっていた。

 深い山吹色に輝くその寺院は、半壊しつつもそれが本来の姿かのように堂々とそこに佇んでいる。

 この世の誰の記憶からも忘れ去られているような寂しげな堀を協力して越えたところで、シュは今宵もランプに色づける。

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そのまっすぐで柔らかいな朱色が、二人の足元と雄大で無口な高い壁のほんの一部分を包むと、砂の要塞は何百年、いや何千年と浴びつづけたであろう月明かりを待ち人とともに受け入れた。

「時が止まっているようだ」

 依頼主はランプの明かりを背につぶやく。

「私たちがその時計の針を動かしましょう」

 大それた事を言ったと同時にそれに気付いたシュは目的の壮大さを思い出し噛みしめた。

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