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航空機事故から学ぶ:軍民衝突

全日空58便と航空自衛隊F86戦闘機の空中衝突事故
1971年7月30日、全日本空輸58便(B-727型機)は12:45千歳空港発羽田行きで、到着機材の遅れで13:33に離陸した。同機は4か月前に就航したばかりの新造機で、41歳の機長は陸上自衛隊OBで総飛行時間8,000hr余りを有しながら、同型機の飛行経験は242時間であった。27歳の副操縦士と30歳の米国人航空機関士も同様な経歴であった。同便は函館NDBを13:46に通過し、IFRルートJ11LをFL280へ高度を上げて、松島NDBを14:11通過予定で南下した。
航空自衛隊第1航空団松島派遣隊所属のF-86F戦闘機2機は、31歳の1等空尉が22歳の2等空尉にVFRで編隊飛行訓練するため、松島飛行場を13:28に離陸した。教官は訓練生へ訓練時間は70分と指示したが、経路と高度の詳細については決めていなかった。当日松島派遣隊に割り当てられた訓練空域は、秋田県内の横手訓練空域であった。このうち、IFRルートJ11Lの中心線から両側5NM、FL250-310を飛行制限空域とし、「やむを得ない場合」を除き訓練飛行禁止となっていた。
14:02に岩手郡雫石町に到達した全日空58便はFL280、MH190°、TAS487ktで巡航していた。2機のF-86Fは教官機が25,500ft、訓練生機がその右後方を約3,000ft高い高度で左右に旋回して編隊飛行を訓練していた。教官は訓練生機の後方にB-727が接近していることに気付き、自ら左右に旋回しながら訓練生に回避を無線指示した。訓練生も直ちに反応して左急旋回をかけたが、訓練機の右翼とB-727の水平尾翼が接触。両機とも操縦不能となり、音速を超えて空中分解して、JR雫石駅の南東に粉々になって墜落した。訓練生はパラシュートで脱出できたが、全日空機の乗員乗客162名は全員死亡した。

Hughes Airwest 706便と海兵隊F4戦闘機の空中衝突事故
1971年6月6日、Hughes Airwest 706便(DC-9型機)は米国カリフォルニア州Los Angeles空港からユタ州、アイダホ州、ワシントン州を巡る短距離シャトル便として、6:02amにRwy24Lを離陸した。
乗員5名と乗客44名の計49名が搭乗しており、右旋回を繰り返しながらDagett VORへ向けて、FL250まで上昇していった。機長は"That's another hazy day..."とリラックスして操縦していたが、左手後方より接近してきた不明機と衝突して墜落した。
当時レーダー画面にプラスティックマーカーをテープで貼って同機の航跡を確認していたLos Angeles管制は、El Monteの北、Duarteの北東で同便の機影が突然消えたことに気づいた。その頃、海兵隊El Toro基地に所属するF4ファントム戦闘機も不明となり、Saddle Mountainで墜落炎上しているとの報告が入った。F4の後席のRIO(Radar Interceptor Operator)は脱出装置で機外へ逃れられたが、前席の操縦士は墜落死した。
NTSBの調査官は、706便が機首をもぎ取られた形でパンケーキ様に地面に叩き付けられ、乗員乗客全員が死亡したことを確認。ATC担当者へ聞き取り調査をして、レーダー画面にF4が映っていなかったとの証言を得た。
海兵隊の事故調査官は負傷して生存したRIOに聞き取り調査をして、El Toro基地へFL150で帰投中、1回バレルロールして周囲を確認したところ、右側からDC-8型機が衝突してきたとのことだった。
NTSBではブラックボックスを回収し、本部で解析したところ、CVRは解析不能だったが、FDRは解析できる状態であった。事故機は順調に上昇しているところ、F4の垂直尾翼がDC-8の機首を切り取る形で衝突したことが確認され、操縦室部分は機体墜落現場から数km離れた山中で見つかった。
F4がDC-8を避け切れなかった理由について、同機の酸素供給システムに漏れがあり、Los Angeles周囲の山々を超える為上昇した際、乗員が低酸素血症になっていたことが考えられた。706便側には特に元軍人の機長などは目視・回避の訓練が不足していて、同社でも機外の見張り訓練を施していなかったことが挙げられた。
ATCが本当にF4をレーダー上で認識できなかったのか、実際にF4を飛ばしてPalmdaleに設置されたレーダーで視認できるかテストしたところ、殆ど画面で見えなかった。当時、軍用機は民間のATCへ位置通報する義務はなかった。
これらの事実が軍民双方で確認された上、NTSBと海兵隊は別個に事故報告書をまとめた。

どちらの事故も1971年に発生した、民間航空機と軍用戦闘機の痛ましい空中衝突事故です。当時、日米の空はジェット化が急速に進みながら、航空路がレーダーで完全に覆域されておらず、民間機からの位置通報でセパレーションする原始的な管制でした。地上のNAVAIDもNDBが主流であり、位置情報の精度も万全ではなかったのです。
また当時は除隊したパイロットが民間航空会社へ「割領」されて、定期便を運航することが主流でした。そのため乗員が軍隊式の飛行習慣のまま操縦することが懸念されていた時代でもありました。
ロスの事故では、民間の航空機事故調査委員会と軍の事故調査部隊がそれぞれ調査を行い、充分な協働体制が取られませんでした。雫石の事故では、そもそも政府に事故調査委員会が常設されていなかったので、当時の総理府に「全日空機接触事故調査委員会」が立ち上げられました。その報告書でも、航空保安業務に関して、当時の運輸省と防衛庁はいっそう協調すべきことが指摘されています。
航空事故調査委員会設置法 が制定され、航空事故調査委員会 が当時の運輸省内に設置されたのは 、1974年 1月のことでした。

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