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航空機事故から学ぶ:コリジョンコースが見えない(2)
レドームで下方がよく見えなかったPSA182便空中衝突事故:1978年9月25日の朝、米国カリフォルニア州Sacrament空港から同州San Diego空港へ向かっていたPacific Southwest 182便(B-727型機)は、同社の従業員を含む乗員乗客135名を乗せて、Rwy 27へ最終着陸態勢に入っていた。42歳の機長、38歳の副操縦士、44歳の航空機関士、それにジャンプシートに着席していた非番の機長は、軽口を叩きながら、和気あいあいと乗務していた。
8:59にapproach管制より、IFR訓練飛行中のC-172型機が空港から3マイルを北西へ1,400ftで飛行中であることを通報され、機長はそれを目視した。1分後、C-172は1,700ftまで上昇し、副操縦士も視認した。ATCからはvisual separationを維持しながら、San Diego towerへ周波数変更を指示された。滑走路の5NM手前で、機長は管制塔にRt. downwindへ入ることを送信すると、管制塔からは12時方向1マイルにセスナがいると通報された。機長はセスナ機を見失い、Flap 5°を入れていた副操縦士にセスナが見えているか尋ねたところ、副操縦士も見失っていた。機長は「1分前に目視したので、既に当機の右側を通過したものと思う」と管制塔へ通知した。
9:01副操縦士が着陸装置をgear downさせた時、下方にセスナが上昇してくるのを見つけ、「こっちへ向かって来るぞ!」と声を上げた数秒後、両機は空中衝突した。
丁度その時ATCのradarには、C-172が接近していることをflashing warningで知らせていたが、衝突でPSA182の機影と共に消失した。
機長は副操縦士へ衝突後の具合を尋ねたが、制御不能と分かり、管制塔へ「PSAは墜落する!」と通報した。傾きながら降下する機内で、副操縦士は「母さん、愛しているよ!」と叫んで絶命した。
C-172と衝突したPSA182便は、San Diego動物園近くのDwight Streetへ墜落した。この墜落事故で家屋22戸が全壊し、地上の7名が死亡した。IFRの訓練生と教官が同乗していたC-172は、その6ブロック先に墜落していた。
NTSBはカリフォルニア駐在の調査官を事故現場へ急行させ、両機の残骸を保留しながら、目撃者の証言を聴き取っていった。多くの証言は衝突後に上空を見上げた時に見えた状況を、うろ覚えで答えた曖昧な内容であった。他方、空港近くで写真撮影していたフォログラファーは、右翼から出火して墜落していく182便を撮影し、提供された。また空中衝突してグルグル旋回しながら落ちていくC-172を撮影した動画も調査に供された。
NTSBはPSA機と管制塔とのC-172に関するやり取りを調査し、管制官からはPSA機が目視を続けているものと誤解していたことを確認した。日直の管制官はradar画面上に警報が頻繁に点灯して鬱陶しいので、衝突の瞬間はいつも通りOFFにしていたことが分かった。
またC-172はIFR訓練中で、操縦学生はhoodを被って計器飛行に集中していたため、外部の見張りは教官に任されていたことも突き止めた。
なぜPSA機は真正面にいたセスナを見失ったのかについて、調査官はPSA機の操縦席の高さについて注目した。B-727型機のwind shield前面の窓枠には適切な目線の高さがマークされており、これに合わせて操縦席の高さを調節する。しかし事故機の操縦席の高さと操縦士の身長を組み合わせると、目線の高さが低く、操縦の視認性よりも座り心地を優先していた可能性が疑われた。そのため下方から上昇してきたセスナ機が、視界の届かないradomeの下に隠れてしまい、着陸準備で目を離した隙に視界から消えたことが考えられた。
操縦訓練を受け始めると最初に覚えるのは、有視界飛行下の雲からの最低間隔です。雲が上下にある時、米国では空域によって雲の下端から500~1,000ft、雲の上端から1,000ft以上離れるよう叩き込まれます。なぜ下端からは500ftで良いのに、上端は1,000ftは離れるべきなのだろうと当初不思議に思います。けれども、そういう状態の空を一度飛んでみると、その理由はすぐに分かります。機体の前下方は、とにかく見えにくいのです。ヘリコプターのように足元が透明なアクリル板で覆われていても、凝視して覗き込むのは容易でありません。まして民間の飛行機では足元に除き窓はなく、前方は機首の出っ張りで12時方向の真正面下方は全く見えないのです。教官から「もっと頻繁に機首を下げたりS字ターンして、前方下方の様子を窺うように!」と口酸っぱく注意されたことを思い出します。
Wikipedia日本版でこの事故の記事を読むと、同便のクルーはSacramentからの出発報告を運航本部へ伝えることを失念し、到着間際になって報告したので、降下中その漫談が続いていたそうです。当時はSterile Cockpit Rule(10,000ftを下回ったら雑談を控えて操縦に集中する)もなく、"Catch our smile"が同社のキャッチフレーズだったので、気の置けない仲間と楽しく到着地へ向かっていたのかも知れません。当時のPSAは、San Diegoに本拠地を置く優良な格安航空会社で、かつて日本航空の乗員も同地で訓練を受けたものです。操縦技量は優秀だったのでしょう。
他方、セスナ機に搭乗していたIFR訓練の教官は何をしていたのでしょうか?訓練生はhoodを着用していましたから、代わりに外部の見張りをしっかり行っている筈でした。空港周辺ではATCからの方位、高度、速度を守りながら、慎重に見張りを行うべきでした。日常の訓練であったので、教官も気が緩んでいたのでしょうか?
そもそもATCから3マイル以内に航空機が真正面から接近していると通報されたら、普通の神経だったら相当緊迫する筈です。まして1マイルまで接近したら、当時はTCASがなかったので、管制官が両機に高度や方位で回避指示を出すのが普通だと感じます。San Diego空域のチャートを見て頂くと分る通り、この空港はメキシコ国境まで10NM弱しかなく、周辺には海軍基地や民間飛行場が複数あって、空域は相当混雑します。しかもSan Diego空港には今も9,401ft (2,865m)の滑走路一本しかありません。全米でも屈指の危険なClass B空域であることは、今日まで何ら変わっていません。
余談ですが、1927年Charles Lindberghが大西洋単独横断飛行に旅立ったのがSan Diegoの地であったので、翌年開港したこの飛行場は彼の同意を得てLindbergh Fieldと命名されました。この空中衝突事故を受け、Lindbergh Fieldでの飛行訓練は中止となり、そこから13NMほど海岸線を北上したCarlsbadにあるMcClellan-Palomar空港等で行われるようになりました。
パシフィック・サウスウエスト航空は1987年USエアウェーズと合併に合意し、San Diego空港のハブ機能は1994年迄に廃止されました。