航空機事故から学ぶ:軍民機で起こったコリジョンコース
空中衝突というと滅多に発生しない、起こり難い航空機事故と考えられがちです。実際滑走路上など飛行場内での事故の方が多いのですが、ニアミスは頻繁に起こっています。日本の空で起こったVFR機同士の空中衝突事故2件の概要と、その事故調査を通じた教訓を考えてみます。
自衛隊機と民間機の空中衝突・1997年8月21日の午後3時半頃から、操縦訓練生47歳は教官の同乗監督下で茨城県龍ヶ崎飛行場の場周経路で小型機 (パイパーPA-28-140型)によるタッチ&ゴーを4回訓練し、併せて場周経路からの離脱と進入を2回に分けて実施した。
問題なく課題をこなせたので、教官は訓練生にソロによるローカルフライトを許可した。訓練生の総飛行時間は約55時間であり、ソロでの飛行は4回で合計1時間程度。当日は約半年ぶりのソロ飛行経験だった。
同機は4時半頃に再度Rwy 08を離陸して、北側の場周経路から北西方向へ離脱した。上空は雲量3~4/8、視程10kmで、ヘイズがかかっていた。
他方、陸上自衛隊第一ヘリコプター団のヘリコプターは、木更津飛行場から霞目飛行場経由で、八戸飛行場まで飛行する予定があったが、午前中に北富士演習場への人員輸送業務があって、出発が半時間ほど遅れていた。
このうち第二ヘリコプター隊所属のヒューズ369D(OH-6D型機)は巡航速度が大型ヘリに比べて遅く、悪天候下の夜間飛行となると予想されたため、他機より一足先に単独で出発して、千葉市~茨城県利根町布川上空~石岡~郡山~霞目のルートで地上1,000~1,500ftを120ktで飛行することとした。48歳の機長は、前年まで10年間ほど陸上自衛隊の飛行教官を勤めていた。これに31歳の備員の1名が搭乗し、16:24に木更津飛行場を離陸した。
16:42頃、陸上自衛隊機は千葉市から北北東方向へ進路を変えて、茨城県竜ケ崎市長山の蛇沼公園上空に差し掛かったところ、進行方向右手から進んできた小型機とほぼ直角に高度約1,300ftで空中衝突した。両機は大破して、その破片は蛇沼を中心に500m×300mの範囲に散乱した。両機の乗員3名はいずれも死亡した。
国土交通省の航空機事故調査委員会は6名の調査官を現場へ派遣。小型機はほぼ垂直に地面に激突する形で墜落しており、両翼が後方へ強く圧縮されていた。2枚のプロペラは先端30cmが破断し、破断部分が後方へめくれていた。エンジンカウリング上方と操縦席上方の上板に赤色塗料が付着していた。
陸自ヘリは胴体、メインローター、尾部、テイルローターが分離して、ばらばらになって散乱していた。後部胴体は欠損し、テール・ブームは前方取り付け部位で破断していた。
衝突事故発生のほぼ同時刻に布川を1,300ftで飛行していたヘリコプター機長によれば、天候は雲は少なかったが500~3,000ftにかけてヘイズがかかっており、太陽を背にすると視程は7~8kmあったが、西を向くと夕陽のためヘイズに太陽光が乱反射して、視程は2~3kmしかなかったとのこと。16:50に高度2,000ftで現場付近を通過した陸上自衛隊機の操縦士は、視程が3~4kmであったと証言している。両機の飛行経路と墜落後の残骸損傷状況から、自衛隊ヘリの右後部胴体の日の丸の位置よりやや下方付近に、小型機のプロペラが衝突したと推測された。また両機はほぼ直角に交差するコース上を飛行していたと考えられるが、自衛隊ヘリの右側エンジンアクセスドアとテールドライブシャフトに直接的な破断痕があり、それらの破断痕がほぼ一直線であったことから、両機の機軸のなす角度は直角よりもやや浅かったと推測された。恐らく両機とも、衝突直前に回避行動を取ったものと推測された。
事故調査委員会の所見として、2機の相対位置が常に変わらずに近づくならば、両機は衝突コースにあると云える。相手機が止まって見える時には正に衝突コースにあるのだが、その見え方から判断が遅れがちである。
小型機は西北西へ飛行していて、丁度ヘイズがかかる中、西日を受けて白っぽい靄(ヘイズ)を背景に自衛隊ヘリが埋没して見えにくかった。
自衛隊ヘリの右側機長席はドアフレームがある関係で、前方30~50°が死角となる。衝突直前に小型機は右前方45°の位置に見えた筈だが、特に体を捻らない限り、ドアフレームの影になっていた。
このような悪条件があったものの、事故調は両機の見張りが不充分であったため衝突に至ったと結論した。
コリジョンコースの怖さは、田畑が広がる見通しの良い道路で、左右から向かってくる自動車の動きを連想すれば、良く分かると思います。相手が動いていないと錯覚してしまい、このままでは交差点で直角に衝突すると直感で判断できないのです。
今回の事故の場合、天候不良、未熟な訓練生、やや急いで飛んでいただろう元飛行教官など、スイスチーズ・モデルの典型的な事故背景が揃っていました。
国土交通省事故調の調査報告書では、見張りの不充分が原因と結論していますが、それでは見張りを強化すれば事故防止できるのでしょうか?
航空法施行規則第181条「他の航空機を右側に見る航空機が進路を譲らねばならない」と条文化しています。この事故では自衛隊ヘリ機長が小型機を進行方向右側に見る位置にいました。航空法第71条の2には「レーダー誘導の有無に拘わらず操縦者の見張り義務」が規定されています。これは両機の機長に適用されます。更に、航空法第97条の2に飛行計画及びその承認について、「飛行場から9kmの範囲内で有視界飛行方式による飛行は、同法施行規則第205条により飛行計画の通報は必要とされていない。」と明文化されています。実際ウルトラライトプレーンを含む多くの航空機が、ローカルフライトが飛行計画なしで飛行場周辺を飛び回っています。竜ケ崎飛行場から墜落現場の蛇沼公園は直線で9km前後でした。
この施行規則は、米国連邦航空法(FAR)でも同様な規定があるため、それに準拠したものなのかも知れません。しかし米国に比べて国土が狭い日本の、特に飛行過密空域で、果たしてこの規則が適切でしょうか?
今回の衝突事故について、少なくとも小型機は竜ケ崎場周路を離脱した後、東京TCA(124.75MHz)にコンタクトすべきだったと思います。トランスポンダは自機高度表示が送信されないモードAだったのですが、自衛隊ヘリのトランスポンダは自機高度を知らせられるモードCが搭載されていましたので、少なくとも自衛隊ヘリの接近について、東京TCAからアドバイスを受けることが出来た筈です。墜落後の自衛隊ヘリの残骸からは、トランスポンダがstand by(暖器準備)の状態で回収されたとのことですが、飛行教官まで務めた自衛隊機長が、首都圏の飛行過密空域をトランスポンダを休止状態にして飛行していたとは考えにくいです。もしも自衛隊ヘリがトランスポンダを切って飛行していたら、東京TCAの管制官は訓練生に対して直ちに回避措置を指示出来なかったでしょう。事故当時、東京TCAや海上自衛隊下総基地の管制官は、両機の接近に気付いていたのでしょうか?キーパーソンへの肝心な疑問が、聴き取り内容として報告書には記載されていないのです。
衝突事故現場周辺には6つの飛行場・場外離着陸場があり、そのうちの1つは日本の表玄関たる成田国際空港(RJAA)です。こんな空域で飛行訓練と自衛隊機の飛行が共通のレーダー管制を受けずに行われているのは信じがたいことです。今回事故が発生した利根川流域には沢山のグライダー滑空場があり、トランスポンダ未搭載のピュアグライダーがあちこち飛んでいます。こういう危うい状況がありながら、より重大な事故が発生するまで看過している航空局の不作為には心底ガッカリさせられます。そのような怠慢な施策が、「小型機や軍用機は危ない」という世論を間接的にミスリードするのです。そして弱体なジェネラルアビエーション(GA)や反対派の多い軍用機に不当な圧力をかける要因になっていることに、行政官は薄々気付いていながら、火中の栗は拾わないのです。
東京や関西など飛行過密地域のTerminal Control Area (TCA)では、管制官は英語が不慣れなパイロットなどに日本語で易しく管制しています。飛行訓練生でも過度に緊張せず交信出来て、レーダーアドバイザリーを受けられる環境にあります。大都市部で飛行訓練や機体整備を行う航空機は、一旦場周経路を離れるのであれば、それが9km(5NM)以内であっても、飛行計画を提出して、自発的にTCAのレーダー監視を受けましょう。本来なら、このような悲惨な衝突事故を受けて国土交通省が省令改正すべきなのですが、そういうきめ細やかな施行規則を練り上げていく意志がないのであれば、GAパイロットが自発的に安全向上を図るしかないのです。自衛隊と民間航空の安全体制構築は、各国で長年の課題となっています。それが現実に発生した悲惨な空中衝突事故は、「軍民衝突」で紹介してあります。