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航空機事故から学ぶ:積み荷が燃えた⓵

後部貨物室からの煙を甘くみて大惨事に:サウジアラビア航空163便火災事故

1980年8月19日、パキスタンのKarachi空港からサウジアラビアのRiyadh空港経由で同国Jeddah空港へ向かうSaudia 163便(Lockheed L-1011型機)は、サウジ国籍の38歳の機長と26歳の副操縦士、それに米国籍で42歳の航空機関士の乗務で、メッカ巡礼者ら乗客287人と乗員14名を乗せて、燃料補給後の21:09に最終目的地へ向けて離陸した。
離陸後暫くして、航空機関士席にC3貨物室に火災との警報が発せられた。機長はこれに反応せず、航空管制へは火災の一報を入れないまま飛行を続けた。ところが警報が離陸してから16〜17分後、「客室で火災、Riyadh空港へ戻る」と翻意して空港管制官へ連絡した。地上の風は320°から5ktとRwy33R/Lへの着陸には好都合で、同機は機体後部から煙を吐きながらも無事に着陸した。
乗員は機体から火が見えるか管制塔に問いかけたが、管制塔からは出火は確認できず、滑走路上の消防隊からも煙しか出ていないとの報告があり、そう伝えた。その後、機体が誘導路上で停止したので、管制官が「そこで避難するか?」同機へ問いかけたが返答がなかった。エンジンが停止される様子もなかったため、3分余り消火活動を開始することが出来ず、その間脱出シューターが展開されることもなかった。そのうち客室後部から火の手が上がって、瞬く間に客室全体に広がった。結局、機外へは誰一人脱出することなく、301名全員が死亡した。
サウジアラビアの航空機事故調査委員会は、機体製造国の米国NTSBの調査官らと実地検分を開始した。事故機は1979年製造で、運航開始後1年しか経っていない新造機であったこともあり、製造元のLockheed社からも技術者が調査に参加した。
胴体部の上半分は焼け落ちていたが、全てのドアが閉じられたままであり、客室後方左側の床が焼けて穴となっており、乗客の殆どが客室前方で倒れていたことから、後方の貨物コンパートメントから出火したことが有力視された。
なぜ客室後部から出火したのかについて、3発機のL-1011型機は出火区域に燃料・電気・油圧系統が集中しているので、それぞれ検証を行った。しかし、いずれからも出火原因は見つからなかった。機械系統の故障から出火したことも考えにくく、残るは後方貨物室内からの出火が有力となった。
サウジアラビアでは当時イスラム過激派によるテロが横行していたので、爆弾や発火物による火災を疑い、英国のテロ捜査機関が調査したが、その形跡はなかった。他方、過去に起こった同様な火災として、乗客が預け荷物にマッチ箱を入れていた事例があったため、それが発火源として疑われた。しかし実地検分で、具体的に何が燃え始めたのかは特定できなかった。
回収されたCVRを解析すると、離陸4分後に航空機関士席にある煙感知器の警報音が鳴ったが、機長はどうせ誤報だろうと懐疑的で、副操縦士に火災時のチェックリストを調べさせただけだった。5分30秒後に航空機関士が「何か臭う」と発言し、機長は「あぁ、確かに」と応じたので、機関士は客室を見回りに行き、「火事になった」と報告。そこで機長はやっとRiyadh空港へ引き返すことを決めていた。
副操縦士が「緊急事態を宣言するか?」と尋ねると、機長は「Negative(必要ない)」と返答した。その後、操縦席に客室パーサーが入ってきて「機外へ退避しますか?」と尋ねたが、機長は「フラップ10°入れよ」問いかけを無視した。その態度に呼応したのか機関士が再度客室を見に行って、「客室内はただの煙だけだ。問題ない」と報告した。着陸前500ftで尾翼部にある2番エンジンの出力が低下。客室チーフが乗客へ「Brace!(頭を下げて!)」と命じるも、機関士は「No need!(そんなの必要ない!)」と叫んでいた。電波高度計が「40...30...」とコールアウトしている途中で、CVRの電源が落ちて、録音が途絶していた。結果的に、どうして乗員がエンジンをすぐ停止させて、乗客を退避させなかったのか明らかにならなかったが、恐らく火災による有毒ガスか一酸化炭素で意識を失ったためと考えられた。

旅客機の後方にあるaft cargo compartmentには、他の貨物室にはない特性があります。ペットや家畜を乗せるため与圧されており、客室同様にエアコンの空気が送入されています。事故を起こしたL-1011型機では、このClass D compartmentは900立方ftあり、基本設計より200立方ft大きかったとのこと。これも大きな火災となった一因と考えられています。Wikipediaなどで事故機の残骸を見ると、機体後部から前方まで、天井部分が完全に焼け落ちています。

メッカ巡礼者はカーバ神殿に向かうまでの道のりで殆ど野宿生活を続けるので、多くの巡礼者がマッチやランプを荷物として持ち込むのだと云われます。発展途上国からの多くの巡礼者は、聖地メッカへの巡礼は一生一度の大イベントであり、海外旅行が初めての乗客が沢山います。最寄りのジェッダ行き航空便の乗客マナーには、今日でも充分注意する必要があると言われます。

亡くなった機長、副操縦士、それにポーランド生まれで米国籍の航空機関士の飛行経歴は優れたものではありませんでした。機長については学びが遅く決断力に乏しい、副操縦士においてはcommittee action(縁故)で入社し、同型機への搭乗許可は事故11日前に出たばかり、機関士はB-707と737型機の機長資格が得られず、L-1011型機の機関士として職をつないでいたと判明しています。当時は機長が神様であり、Crew Resource Managementの概念は一般に普及していなかった時代でした。けれども、それがあったとしても、CRMは到底期待できそうもないメンバーだったのです。



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