「人間は」「生物学的に」子供を産むべき論のクソデカ主語
「生物学的に産まない個体は劣」だの、「人間は本能として遺伝子を残したいはず」だの、いかにもそれっぽい感じで子供を産まない事を批判する理論の破綻とそれを人に押し付ける事の2重のやらかしをここに記したいと思います。
「人間は」「生物的に」ってクソデカ主語人間、やらかしてんぞ。
人間の英智どこに置いてきた?
まず、人間をホモサピでしか語れないのどしたん?叡智どこ置いてきた?
もちろんホモサピで語れる一面もあるけども、人類が叡智を持って文明を築いてきたその「生活形態」や「個人選択」を無視して生物学的という一言で論ずる事の軽薄さよ。
分裂を使命とする単細胞のアメーバなのかな…?
ここではあえて同じパラダイム、生物学的視点に立ってお返ししてみますね。
世界の人口増加
じゃあ、「いま世界の人口は増加傾向であり、適正人口50億を大きく超えてるのをご存知?」
日本において少子化少子化と言われてるから世界人口の概念がスポッと抜けているんだと思うのだけど、生物学的に「種として」「人間として」語るなら、どう考えても日本でなく全体人口の方。
→人口が減少している日本の視点で言えば「人間が増えることは是」、
→人口が増加している世界の視点で言えば「人間が増えることは否」、
視点が違えば産むことは「是」にも「否」にもなるし、この感覚は一人っ子政策でご存知の方も多いはず。どういう状況でも産むことが「よし」とされている社会はない。
つまり世界で見れば「適正人口を超えてるのに産むなんて無責任」とも「人口増加しすぎた人類において子供を産まないのは進化した個体であり優秀」とも言い換えられる訳です。
「産まない個体が優」
ただ実際に産まない個体が優だなんてそんなこと言わないし1ミリも思ってもいません。産むべきも、産まないべきも、「べき論」とすることが馬鹿馬鹿しいから。
私達は文明社会に生きていて、個人の自由選択が保障されている。戦時中のお国のために産め増やせ要員の人権無視時代と違って個人選択が認められる現代は素晴らしいものだと思う。
そんな中個人の選択を「人間的に」「生物学的に」論じる人は時代をトリップして来たんですか?遥かなる時を超えて?
戦時中の…あの…大変な事です…お疲れ様です…
でもここは令和なんです落ち着いて。
クソデカ主語に要注意
半出生も出生賛美も、「私は」っていう一人称を外して主張として展開するとまあ分断するよね。と思ってて。
「産むべき」も「産まないべき」も「べき論」の是と否の論理になるし、あくまで【私は】の個人的な話に【人間は】というクソデカ主語を混入すると「生まれて幸せな人と不幸な人」がいる以上論理破綻する。
例えば反出生主義の「『人は』生まれない方が幸せ」という説は、n=1の生まれて良かったー!幸せ!って人(私)がいたらロジックが崩壊すると思う。
クソデカ主語を使う時はマクロ視点で。
個人視点なら主語は「私は」で。
個人視点ではなく社会的視点で論じるなら個人攻撃など起きるはずがない。なので、個人攻撃が起きてる場や自分の選択が批判されてると感じる場では誰かが必ずやらかしてます。
「人間は」って主語を大きくして自分の主張を"みんなの総意"にしたいんですね。虎の威を借る的な。
いやなに勝手に人間代表してんの?頼んでない。
相手の尊重なくして自分も尊重されない
"誰か"が色んな気持ちや背景を持ってして「子供を産む」と決めたのと同様に、「子供を産まない」と決めた"誰か"にも気持ちや背景がある事を忘れてほしくないと思うし、相手の尊重なくして自分も尊重されない。
然るべき当然に個人の選択は尊重される。
もうそれは当たり前の事だし、個人幸福度の高い社会が誰にとっても快適だと思うし、私はそういう先進社会に生きていたい。
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