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「かわいい・きれい・かっこいい」と言われたら

自問自答ファッション講座・あきやあさみさんのこちらのnoteで問いかけられている「かわいい・きれい・かっこいい」という言葉を聞いたとき(もしくは自身に言ったとき)どんな気持ちがしますか?ということについて、考えてみたいなぁと思います。

ここ数日、twitterで自問自答ガールズさんの考えなどを拝見して、「よっしゃ!いっちょ考えてみよう」と決心しました。

本当はずっと前から、「かわいい・きれい・かっこいい」問題のnoteは拝読していて(あきやさんのも、自問自答ガールズさんのも)、ただ自分の身において考える気持ちになれなかったので保留にしてきました。

なぜだかわからないのですが、この問題について考えていると自分の中のHP(ヒットポイント:体力)がガリガリと削られていく音がするのです。

この際、避けるのではなく「なぜ避けたくなるのか?」を知る(ことで自己理解・自問自答が深まる)ためにもしっかり考えていきたいと思います。

思いつくままに書いているので、はたして最後に「なぜこの問題を考えたくないのか?」という問いに答えが見つかるかどうかはわからないのですが、どうかお付き合いくださいませ。


ちなみに、各項目について画像をお借りしても良いとのことだったので、使わせていただきます!
ありがとうございます🙇‍♀✨



1.

「かわいい」については恥じらいもなく言ってしまうと、わりと言われ慣れていて、日常生活において男性に言われることはまったくありせんが、女性(とくに年上の)に言われることは多いです。

「外見がかわいい」ではなく、孫を可愛がるような意味での「かわいい」だと思います。

私にとって、他人からの「かわいい」は許容・受容を意味します。

その言葉を引き出せればこっちのもん、そのエリア(その人との対人関係)は完全に安全地帯、オールグリーンです。
多少フリーダムにふるまっても咎められることのない楽園です。

私にとっての「かわいい」 とは己の媚態と道化の先に獲得できる、自分をポジティブな形で人に許容させるための生存戦略なのです。

あくどいねぇ…。

だから、私は「かわいい」と言われると内心ニヤリとほくそ笑む。

類義語には「湖森って天然だよね」という言葉もあります。
天然ではない、一般教養がないだけ。

自分で自分を動物にたとえるとダンゴムシなのですが、ペンギンに似てると職場の人たちに口を揃えて言われました。

▲ よくこういう虚無の表情をしてしまう。

気まずい空気感の中や怖いなぁと思ってる相手と喋るとき、もしくは高まるテンションを抑えようと思ったときになんだか両拳を握って腕をパタパタ広げたり閉じたりしてしまう癖(威嚇か?)があるのですが、そこにペンギンイズムを感じるとのことです。

ペンギンもダンゴムシもなんかぼんやりしている感じが似てはいるのですが、一般的にみて「かわいいアニマル」であるペンギンに例えてもらえているのは、それなりにかわいいキャラクターを演じてるからというのもある気がします。

まぁでも「たとえるならダンゴムシってかんじだよネ!☺️」なんて、同僚に言う人はそうそういないと思うので、これはお互いの『糖衣』が混ざりあった結果なのかもしれませんね。

あきやさんもこうおっしゃっています。(免罪符の如く引用する)

糖衣は好意です。「嘘をついている」とか「違う人格を演じている」訳では全くなく、どちらも大切なその人の要素です。正露丸だって糖衣をまとえば途端に飲みやすくなるのです。

別に騙してやろうとか利用してやろうと思っているわけではないのです。

あと、これは賛否両論・非難轟々なのかもしれませんが、異性に対しても「こういう風にふるまえば(会話すれば)かわいいと思われるな」というのも常日頃考えて話しています。

ぶりっ子ではなく、モテたいのでもなく、これもまた「異性(他人)に好かれといて損はない」という計算です。
そして、「相手にどうやったら好かれるかを考えられる程度には余裕があり、自我を手放している」という状態が理想でもあるからです。

※ちなみに男性には「女性」としてかわいがられたいというよりは、「かわいい孫もしくは姪」くらいの感じでかわいがられたいのです。ラブ・ロマンスは不要なり。

私は他人に好かれて援助を受けていないとまともに生活も仕事もできないと感じるほど、思考が現実世界から頻繁にログアウトしており、ここではないどこか遠い世界でふわふわ散歩してしまうからです。

もし自分が風船だとするならば、「かわいい」という言葉をたくさんの人から得ることは、風船の紐をいくつも伸ばしてこの地上に自分をなんとか辛うじて縛りつけるようなものなのです。

ドラえもんは常に地面から3mm浮いている、というマニアックな設定がありますが、湖森もこの世から3mmくらい浮いている気がします。

「かわいい」は「萌え」とも同義だと思っていて、弱さや欠損や他者との違いをものすごい力技で肯定してくれる言葉だと思います。

あとは、大好きな小説『有頂天家族』(森見登美彦)のこの言葉を思い出します。

狸である主人公・矢三郎と、元人間の天狗・弁天の会話です。


「何をそんなに切ながっているんです?」
「私に食べられるあなたが可哀想なの」
「喰わなければよいのではないですか?」
「でも、いつかきっと、私はあなたを食べてしまうわ」 
「食べてしまうわとあっさり言われても困ります」 
私は言った。「こちらは命に関わる問題だ」 
弁天は「食べちゃいたいほど好きなのだもの」と得意の台詞を呟いた。 
「でも好きなものを食べたら……そうしたら好きなものがなくなってしまうんだもの !」
「あたりまえじゃないですか。わがままだなあ!」 

『有頂天家族』森見登美彦

「かわいい」は、「食べちゃいたいほど好き」 であり、「目に入れても痛くない」です。

少なくとも、私が他人に「かわいい」と思うときはそういう感情が元になっています。

そして、他人に「かわいい」と思うことはほぼあまりなくって、恋愛(片思い相手に対して)のときだけです。

でも、男性のことを「かわいい」と思ってしまったら沼、みたいなツイートを見たことがありますが実にそのとおりだと思います。

「かわいい」は見下ろしているようで、実は対象に絡め取られているのです。

結論:「かわいい」は毒ありの糖衣。


2.

もし他人に「きれいだね」と言われたら、ドキドキしちゃうかもしれません。怖くて。

私の思う「きれい」はきちんと整理されている状態というか、どこかピンと張りつめたものがある空気感を感じます。

もののけ姫の歌を思い出しますね。

はりつめた弓の ふるえる弦よ
月の光にざわめく おまえの心
とぎすまされた刃の美しい
そのきっさきによく似た そなたの横顔

『もののけ姫』歌:米良美一 作詞:宮崎駿 作曲:久石譲 


お布団でグダグダのんびりしてたのに、急に綱渡りをしている状況に転送されたような心地です。

嫌いじゃないけど、ダルいです。

それと、一般的にいう「きれい」には翳り(かげり)が足りない気がしてつまらないです。

隠された部分、歪んだ部分、欠けた部分があってこそ、美しいと思うからです。

また、「かわいい」の奥には策略がありますが、「きれい」の裏には「汚い」という評価がある気がしていて、そのカードが持ち主次第でいつひっくり返るかわからない感じも落ち着かなくて苦手です。(そうそう「きれい」から「汚い」にひっくり返ることはないとは思いますけど。つまり、これは評価者の視線を感じて不快ということなのかなと思います。)

もちろん、実際に「きれいですね」と言われたら素直に褒め言葉として喜びますけど。
でも、同時に「これからもこの人の前ではしっかりしておかなくちゃ」という重荷もあって、そういうのがダルいなぁという感じでございます。

結論:「きれい」は緊張するからやだ。 


3.

言われたことあんまりない。

「かっこいい」は「頼りがいがある」というイメージを持つのでもし言われたら、「頼られるのはちょっぴりイヤ…」となるかも。

でも、「イイ女」という意味でのかっこよさには憧れがあります。
これはまた今度、内なるYAZAWAの話のときにくわしく…。

一般的な「かっこいい」(内面の話で言うと)はキャリアウーマン的というか、社会的に自分の地位を確立している感じがするかなぁ。
天海祐希さんとか、小池栄子さんとか。
上司にしたい人、というイメージ。

腹から声が出ている感じ。

外見の話で言うと、「イケメン」よりも「ハンサム」が好きです(なんのハナシ?)
及川光博さんが一番スキ。

話が逸れましたが、上っ面だけじゃない人間性も豊かな人の堂々たる居ずまいを「かっこいい」と感じると思います。

結論:「かっこいい」は言われるよりも、観客席で眺めていたい。


4.まとめ

どうしてこのテーマを考えるときは気が重くなるのか。
なんとなく思うのは、私は人々の求めるそれらに過剰に適応しようとしてるからなのかもしれない。

「かわいい」も「きれい」も「かっこいい」も、絶対的なサイコーの評価だ。だから、それに乗っかって追いすがって他人に認めてもらうための材料にしようとする。

でも、それらの評価基準は人によって時代の流れによってまったく違くて、1本の糸をたぐりよせようとしている間にそこかしこに張り巡らされた糸に絡まって身動きが取れなくなるような感覚があるんだ。
(ここで「絡め取られている」と「ピンと張りつめたものがある」 の伏線を回収していくスタイル)

私が本当になりたい、憧れる内面性は「誰かの顔色を伺わずに自分の能力に拠って生きていくこと」なんだな。真逆だねェ。

ただ、そういう生き方をしてこなかった、そういうことに苦手意識があるからこそ、そのことから目を逸らしてきたんだ。

こと自分に関しては、苦手分野を克服するために努力するよりも得意分野でカバーすることのほうが輝けるタイプだと思うから、無理に天海祐希さんを目指す気はない。

顔色や声の調子から相手の気持ちを察することも、周りの人と「持ちつ持たれつの共生関係」(『映像研には手を出すな!』より)を保てることも、自分の大切な才能なので。

いま気づいたんだけど、私の孤独好きは他人といると人の顔色を伺って疲れちゃうから、物理的に距離を置くことで心の安定を保ってるのだな。

てっきり、孤独好きだから他人とうまくやれないのだと思っていた。卵が先か、ニワトリが先か。

じゃあどんな言葉なら他人に言われて嬉しいかと言うと、「あなたって独りでいても、なんにもなくても、楽しそうだね。」なのですな。

世捨て人でもない、仙人でもない、妖精でもない。

私がなりたいのは、たとえ地獄に堕ちてもそこにある池の淵などをのんびりぽてぽて歩きたい、そんな図太い「おさんぽマインド」なのです。






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