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公園での出会い 異国の地で母親になるとは

パン屋でサンドイッチを買い、子供と公園に向かった。敷地内の大きな花壇のまわりに、白い石のベンチがいくつも設置されている。そこでランチをしようと考えた。ところが、唯一空いていたベンチに、ベビーカーを押しながら前を歩いていた女性が先に腰掛けてしまった。少し逡巡した末、隣に座って良いか尋ねた。すると「英語話せますか。フランス語が分からなくて」と困惑した表情で彼女が答えた。相席して、バゲットをほおばりながら話をした。聞けば、一週間前にフランスに来たばかりだと言う。私がフランスに来たての頃のことを思い出した。当時、知り合いがなく、子供もなく、根無し草のように孤独を感じていたのをよく覚えている。
 
彼女は米国サンフランシスコ出身で、夫の仕事の都合で、1歳になったばかりのお嬢さんとともにフランスに越してきたそうだ。親戚に会いにサンフランシスコを訪ねたことがあるけれど、海あり山あり、とても良いところだったと私が言うと、彼女の硬い表情が一気に明るくなった。フランス語ができないと日常生活に支障があるのではと尋ねると、お店は比較的英語が通じるから何とかなっていると言う。フランス語の学校を探しているというので、いくつか教えた。この街には外国人が多く住んでいること、地元に国際交流協会があり様々な国の人々と出会えること、そこに未就学児や幼児のいる親のサークルがあることを話したら喜んでいた。
 
お嬢さんがベビーカーでぐずり始めた。「そろそろお昼寝の時間だわ」と彼女が言った。ぐずる我が子を眺めながら、「母親になるって難しいですよね」と呟いた。理想と現実の狭間で苦悩する彼女の気持ちが痛いほどよく分かる。さらに、これから乳飲み子を抱えて異国の地で暮らしていくのだ。その心細さたるや。母親になるのには時間がかかること、それは当然であること、そもそも、母親になるとはどういうことだろうといったことを話した。最後は、ぐずり続けるお嬢さんに急かされるように慌だたしく去っていった。

自分のことを振り返れば、出産後の一年は子供の世話に必死であまり記憶がない。自分というものをどこかに置き忘れている感覚だ。そこから母親になるとはどういうことだろうか。改めて考えてみる。大げさな例かもしれないが、政治家が首相の座に就いて徐々にその器になっていくのと同じで、母親も、子供から「ママ」と呼ばれ続けて少しずつ母親という器になっていくのだろうと思う。父親もきっと同じだろう。なろうとしてなるのではない。環境が人をそうさせるのではないか。だから時間がかかるのだ。

彼女は今日も複雑な思いや孤独を抱えながら、赤ちゃんとあの公園を散歩しているのだろうか。彼女とご家族の生活が一刻も早く落ち着き、そして彼女が今の悩みから少しでも自由になれるよう願うばかりだ。

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