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タンゴとスロバキアとピアソラと
門をくぐると、眼鏡をかけた背の高い男性が、玄関のドアノブに手をかけて、柔和な笑顔で出迎えてくれた。私は、プロのチェロ奏者の彼と友人のピアニストとトリオで演奏することになり、この日が初顔合わせだった。
挨拶を交わした後、キッチン横のカウンターで、コーヒーを飲みながら少し雑談をした。スロバキア出身だと彼が言うので、同国はかつてチェコと一つの国をなしていたがと話を振ると、旧チェコスロバキアは、20世紀に断続的に存在していた国で、第一次世界大戦まではチェコもスロバキアもオーストリア・ハンガリー帝国の一部だったと彼は言った。スロバキアは、歴史的背景や地理的条件からチェコよりオーストリアに心理的に(?)近いのだそうだ。スロバキアの首都プラチスラヴァからオーストリアの首都ウィーンまで車で一時間だと言う。距離にしておよそ60Km。日本国内で言えばちょうど京都と大阪の距離感だ。スロバキアとの国境に接するオーストリアの町に自宅を構えてプラチスラヴァまで通勤する人もいるという。音楽の都ウィーンとプラチスラヴァは音楽面でも深い結びつきがあるらしい。気さくな彼からあれこれ話を聞くにつれ、昔学んだ世界史の記憶がそれと結びつき、遠かったスロバキアという国が具体的に身近に感じられてきた。
さてそろそろ始めようかと楽譜を取り出し、楽器を組み立てて、練習に臨んだ。アルゼンチン作曲家のアストール=ピアソラのタンゴだ。
ピアノが奏でる不穏な幕開けから、チェロの独奏が始まる。朗々と、居間一杯に響く弦の音。その深い音色に心が躍る。しばらくしてチェロに応答するようにフルートが入ってくる。そして、クライマックスでチェロとフルートによる駆け引きのようなフレーズが続いた後、甘く優しいリズムに変わる。そして冒頭のチェロとフルートの独奏に戻るのだが、絶頂の手前で、残酷にも突如として破局を迎えるかのようにあっけないエンディングを迎える。
チェリストの彼は、アルゼンチン特有の楽器を使うタンゴの音楽家たちと共演経験があるという。アルゼンチンの笛は、息遣いが聴こえるように吹き込むのだそうだ。曲の最後は大げさにビブラートをかけて終わると言う。クラシック畑の私はこれまで澄んだ美しい音を追求してきたが、息遣いが入り込むような音作りを自分の演奏にも生かしてみようと思った。
タンゴのリズムの話になった。チェリストから、テンポキープの注文が入る。この曲は、タンゴ独特のリズムを刻むピアノに支えられて、チェロとフルートがタンゴダンサーのペアのように踊る構造になっている。だが、私もピアニストもタンゴのリズムをまだしっかりと体得できていない。タンゴとは何だろうか。タンゴのリズムとは。ピアソラのタンゴとは。数々の疑問が湧いた。帰宅して早速調べてみた。
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タンゴ発祥の地は、アルゼンチンの首都ブエノスアイレス。19世紀後半、肥沃な平原を利用して穀物や牛肉を大量に輸出していたアルゼンチンは、大変な好景気だった。多くの労働力を必要としていた首都へ、ヨーロッパから人が多く移り住んだ。アフリカからは黒人が奴隷として、中南米からは出稼ぎ労働者、インディオや地方の若者が大量にブエノスアイレスへ流れ込み、活気で溢れていた。しかし、『南米のパリ』と呼ばれるほど美しく発展した街の裏では貧富の差が拡大し、移民が多く住む港町は退廃的な空気に覆われていく。
当時、船乗りや労働者、貧しい移民たちが集まる場末の酒場で、人々が娼婦と踊るようになり、それが下層階級を中心に広がっていった。一方、音楽はダンスの伴奏曲としてヨーロッパから伝えられたワルツやポルカ、キューバのハバネラ、ウルグアイの黒人音楽カンドンベなどが奏でられ、やがて様々な国の音楽の要素が混じりあい、いつしかタンゴやミロンガと呼ばれるようになったそうだ。
アルゼンチンタンゴの革命児と言われるアストール=ピアソラ。1921年に生まれた彼は、幼少期をニューヨークで過ごした。かの地でガーシュインがカフェの一角で演奏するのを聴いて育ったそうだ。この二大巨匠の遭遇話を想像するだけでワクワクする。ピアソラは16歳で母国アルゼンチンに帰国し、早くもバンドネオン奏者、作曲家・編曲家として頭角を現していく。時代の変化に合わせてタンゴも変わるべきだと考えた彼は、伝統的なアルゼンチンタンゴ界を去り、フランスに向かう。以降、クラシックやジャズと融合させたピアソラの革命的なタンゴは、欧米で高く評価されていった。
ここで、バンドネオンという楽器について紹介したい。ピアソラによれば、19世紀中ごろのドイツで、当時高価だったオルガンの代わりに、教会音楽を奏でるためにバンドネオンが発明されたという。アルゼンチンに向かう船の甲板で、ドイツの水兵がこの楽器を演奏したそうだ。長い船旅や労働で疲れ切った水兵が、つかの間の休息時間に、愛する人を想いながらバンドネオンを奏でる姿を想像した。バンドネオンの哀愁漂う、ヴェルヴェットのような音色は、アコーディオンのポジティブなサウンドと異なるとピアソラは言う。右手と左手でメロディーを奏でることのできるバンドネオンは、タンゴに欠かせない楽器となっていく。
ひととおりの知識を得たところで、さて、ピアソラの音楽をどう表現するか。時間をかけて、演奏曲に限らずピアソラのあらゆる曲をよく聴き込むことにした。タンゴのリズムが徐々に耳に馴染んできて、ピアソラ音楽の芯の部分が少しずつ見えてきたように感じていた。
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一か月がたち、2回目のトリオ練習日がやってきた。頭の中はすっかりタンゴの世界に染まっている。一度通しで弾いたあと、この小節ではこう表現したい、繰り返しのところはこういう音を出したいと皆に細かく伝えてみた。すると、チェリストが少し考えた後、「いや、自由で行こう。今のトリオの音をよく聴き合って音作りしていこう」と言った。ハッとした。ピアソラの音楽だが、演奏者は私たちだ。ピアソラの真似ではない。その時々でコンディションは変わるし、解釈も変わる。それぞれの持ち味を出しながら、私たちトリオにしかできないピアソラの音を探るべきだったのだ。
音楽は応答だ。誰かが音を出すと、それに乗せて音を重ねていく。今この瞬間にしか存在しない、かけがえのない音なのだ。初めて練習した時、「もう、すぐにでも本番を迎えられるね」とチェリストが笑顔で言ったことを思い出した。まだまだ曲への理解が足りないと思っていた私は、そう彼に言われて驚いたが、あの時は何も考えずに感じるままに演奏していた。知識は大切だが、頭でっかちになると途端に自由度を失う。知識を吸収したら、いったんそれらを横に置き、今度は真摯に譜面を読み、仲間とともに音楽に向き合う。自由でよいということは、私たちの音楽性を認め、もっと高みを目指すことができるとチェリストが信じてくれているということ。深い喜びとともに、責任をも感じた。彼の期待にどう応えていくか。本番まで、これからが勝負だ。