ありのままの自分で生きていくために
自己理解プログラム step0開始
【自己理解プログラム受講前の状態(Before)】
現在は転職にも現職にも自信が持てず、将来のビジョンがわからない状態です。モヤモヤしすぎて、迷走期突入していました。
強く印象に残っている、人生最初のモヤモヤは、高校の分離選択でした。ゲームやアニメ、サブカルチャーの影響もあり、授業で国語や日本史、古典の授業は好きな部類でした。友人からもそう思われていたようで、理系の教室にいたときは、「なんでいるの?」と驚愕されたのを覚えています。それも複数人。確かに私もそう思います。モヤモヤポイント①好きな授業が少なくなるが発生した瞬間でした。当時の私は、安泰や安定を考え、将来資格が欲しいと思っていました。周囲に看護師や福祉系の職種の親族がいたのも要因で、理系のほうが資格が取りやすいと考え選んでしまいました。あと理由としては、英語が一番苦手であったことも要因でしたね。その結果、私は理系を選びましたが、当然数学や化学、俗にいう理系科目を楽しいと思うことはなく、週に1回の歴史の授業と古典の授業を心まちにしていたことを覚えています。テストの結果も、面白いぐらいにそれを反映していて、当時のセンター試験でも国語は9割に対して、理系科目は散々であったのを覚えています。
理系に進んだ私ですが、高校の職業体験では、他の生徒がグループを作って、病院見学や有名チェーン店に行くなか、一人で歴史系の地元の博物館に行ったことを覚えています。自分なりに探したときに、学芸員という職種があることを知り、興味を持ったのがきっかけですね。今より知識も視野の狭かった当時の私は、歴史が仕事になるなんて思いもしませんでした。その時の衝撃のまま、一人で職業見学していました。その博物館は縄文時代の土器や地域を収めていた殿様や城跡の展示が主としているところでした。縄文土器などにはそこまで興味は持てませんでしたが、殿様の鎧やを家紋に有名なものを発見し、地元の偉人との繋がりがあったことを知ったときは驚きがありましたね。職業見学をいいつつも、ワンツーマンでプロの人に専属で博物館巡りをさせていただいことは、ありがたくも楽しい経験でした。そこで、「学芸員になりたい!なるんだ!」にならなかった私がいました。理由は、学芸員の方に仕事について聞いたとき、「資格は取れるけど、入職は狭き門」と言われたことが大きかったです。学芸員の求人の枠に対する希望が多く、やめる人もいないため定年まで待つことが多いと教えていただきました。そのため、社会の教員をしながら空きを待つ人が多いとのこと。教員免許と学芸員をとって、教員をしながら学芸員のなれるチャンスを待つ形になると話を聞きました。「フェラーリ買えちゃうぐらいの生活費がかかる」と言われたとき、漠然とした不安が沸いたことを覚えています。そして、自分が本当に歴史が好きなのか、ただゲームやアニメの延長ではないか、教えていただいたマイナスの面を抱えて生きていけるのか自信がなくなりあきらめてしまったのです。他は教師になりたくないなと思ったことも大きかったですね。複数人の前に立つことが嫌だと感じたため、それも要因となっていました。あきらめたあと、自分の将来が真っ白になった感じがありました。あきらめたとしても、今後のことは考えなくてはならない。自分の本当にやりたいことは何なのか、模索する日々がここから始まりました。
次に私が見つけた職業は心理士です。人の悩みを聞く機会があったことや、自分の感情を考えることがあったことで心理士に興味を持ちました。親ともその時期相談したのですが、「メンタル不安定なのに、人の悩みばかりを聞く職業で大丈夫?看護師とかはどうかな。やりたいと思っている、人の悩みをサポートできるし、悩みばかりをきく状況ではないから」と当たり障りないところで看護師を進められました。上記でも話しましたが、資格が欲しかった私の条件ともあい、自分のメンタルの弱さを自覚していた私は、またもや流されてしまいました。そこから、卒業し大学で看護科へ入学しましたが、周りとのモチベーションの差に悩む日々でした。こうして書いてみると、それはそうだなと思いますね。周りには看護師になりたい子しかいないのに、とりあえず看護師の私とは熱量の差があった当然。しかし、志のような軸がない私は敷いてしまったレールを歩き続けていました。すごくやりたくないわけでも、できないわけでもないという状態で続けてきたことが、現状にもつながっているのだと考えます。でも、楽しいとは思えないし、やりがいを自信をもって話せる自分でもないことを知っています。大学時代から、そのモヤモヤが出てくるたび学芸員を思い出します。そうして、それすらも本当にやりたいことかわからず押し殺していた気がし。ここがモヤモヤポイント②ですね。そんな私が、看護師で進めたのは東日本大震災のとある映像だったと思います。震災後年数がたったころ、当時の状況や現地の人をまとめた動画を見ました。復興をする人たち、瓦礫で泣き崩れるひと、助け合っている様子をみて泣いてしまったのを覚えています。共感したのか、はっきりと自覚はありませんが、感じ入るものがありました。その時、とある著名人の言葉を見ました。「しっかり飯が食えて、安らかに眠れる場所があって、人間は心から笑えるんだ。悲しいけど、目の前に死がちらついている時には芸術や演芸なんてのはどうだっていいんだよ。おいらたち芸人にできることがあるとすれば、震災が落ち着いてからだね。悲しみを乗り越えてこれから立ち上がろうって時に、笑いが役にたつかもしれない。そんな日が早くくればいいね」とネットで上がっていたのをみたとき、腑に落ちるものがありました。昔から、人の感情に共感してきた私は、歴史で悲しさや辛さをぬぐえるかと思ってしまいました。看護であればぬぐえるものもあるのではと考え、その道を決めました。そうして入職して、働く中でまたモヤモヤが出てきました。
モヤモヤポイント③は仕事が作業になっている気がしたことです。やりがいを選んだはずなのに、業務の多さや人とのかかわり、モチベーションの低さとスキルの低さに悩む日々。今日こうして、思いつくまま文章にして、再認識したことは、周りに流され続けていることでした。アウトプットとして、思うがままに書いているので、読みずらさはありますが、こういった課題を再認識できることはいいですね。最初にも書いてますが、迷走しつづけて、先が見えない自分、目標やビジョンを抱けない自分や自信の低さが現状の自分として見えてきました。ふわふわ、地に足がつかない、自立できない自分。誰かの庇護下にいる自分が現在の状態です。そのため、自己理解プログラムの受講にいたったと考えます。
【自己理解プログラム受講の理由・きっかけ】
迷走しているわ私が、実業家やフリーランスの方々の動画を探してみいていく中で、心が辛くなり胸が苦しくなることがままありました。HSPという個性がある私ですが、怒鳴り声や強い言葉にばかり集中がいき、本来の大事な内容が入ってこないことが多くありました。その中で、八木仁平さんの動画に出会って、本を読んだことがきっかけでした。自己理解プログラムを受けることで、自分の軸が定まるかもしれないという期待が、大きくなっていき、受講のこぎつけました。実際は無料診断を2回予約してはやめるを繰り返したんですが、動画を見続けていく中で、近しい悩みを持つ人を見たり、納得できることや視野が広がる感覚が積み重なり、受講をするという決断に至りました。
【自己理解プログラム受講後の理想状態(After)】
①好きなことは好きと、嫌なことは嫌と、楽しいことには楽しいと、嬉しさ、悲しさ、辛さを理解し、言える状態になっている。誰かがこう思うのでは、と考えるのではなく、自分はこうしたいと自信に満ち溢れていたい。素直に自分を認めることができる自分になる。
②やりたいことをできる自分である。不安や未来におびえて進むことができなくなるのではなく、わくわくが止まらないような、やりたくて仕方がない自分でいる。
③志をもった人生を生きていく。その生きがいで自分も家族も知り合いも幸せで、笑顔があふれる生活をしたい。怒ったり、悲しんだり、辛さだけをフォーカスした仲間になりたくない。ふとしたことで笑える、そんな環境で生きていく。
【100日間の過ごしかた・意識すること】
自分の感情を自分に問うこと:何を感じ、何を思ったのか聞くために
価値観を明確にする:そもそもの原因として、価値観が明確でないから優先順位がつけられず、何が大事かがわからない
得意なことを明確に:プログラムを通して、自分の資質への理解を深める
好きなことを明確にする:好きすら曖昧な自分。何気なくやっている行動やすきなことを自信をもって言えるように意識していく