親離れと働き方・学び方の相似形
親と22年ぶりに同居して思ったことを書きました。
今回は、親離れと働き方・学び方の相似形について書きます。
親についてはこちら。
働き方や学び方についても、
子供時代の「絶対視」からの卒業がとても関わっていると思います。
親離れができていないと、働き方も
会社や上司に対する態度が
親に対するそれを保持したままになりやすい。
親と話し合い、親の提示する方向性と
別の合意を取り付けられるような関係性ができていた場合は
会社とも健全な関係を維持しやすいが
親がそうではなく支配的であった場合や
親は絶対であると思い込んで育ってしまった場合は
会社でも新しい第3の結論を作ることを諦め
自分を折ってでも従ってしまい、
やがて自分が壊れてしまったり
身内に皺寄せが寄ってしまう。
自分が先生として生徒の前に立ったとき
この傾向が受講生の態度にも見えてくる時がある。
学び方
段階別に3種類ある。
これは私自身が通った学び方でもあり、別にそういう段階なのを批判するつもりもない。
ふと、子供と親のことを考えていると思いついてしまったので書いてみる。
今はこれを書きながら、私自身が教える側として支配的な親にならないようにしなければと自戒の念や反省、恥ずかしい気持ちになりながら書いている。
親離れできないタイプの学び方①拗ねる子供
20代から本当に1000万以上、
学びの場に参加してきた。
思い返すとこれは、会社で認められない私が
お金を出してでも欲しい
「私を認めてくれる神様探し」だった。
でも、当然そういう不健全な状態で学びに行くので
効果的ではなかった。
神様探しな学び
参加した学びの場で、期待したカリキュラムや
進行方向では無い、あるいは課題についていけないとフェードアウト。
自分に失望もしているけれど、
自分に合わせてくれない教師にも失望し、メンタル的には拗ねていた。
自分からは何も意思表示せず
完成品で自分にフィットするものを求めていた。
でもどこかに、”私にフィットする正解”があると思い込み
先生を崇拝してしばらく進むが違うことが出てきたら
失望して講座ジプシーになる。
自己嫌悪になりつつ、
自分に合わないフレームや課題を出す相手を恨んでいる。
でも、独立したいのなら、お金が欲しいのなら
「消費者」という枠組みから出なくてはいけないのに
お客さん(消費者)のままで駄々をこねる。
そう言う自分もメタ認知ができてない。
そもそもお客さん脱却しないと
お金を稼ぐ側創造者、提供者にはなり得ないのに。
親離れできないタイプの学び方②優等生になろうとする
次のフェーズが、学びに行った場所で
なんとか優等生であろうとして課題をこなす学び方。
でも、その講師のやり方自体が
自分のキャラクターや経験とあってない
気持ちではやりたくない、という事に気が付けず
(認められず)
受講期間中にだけは
無理をして成果も少しだけ出すが、卒業後には継続しない。
これも「先生の枠が正しい、正解である」という
思考にはまっている事をメタ認知できていない状況。
先生が言うんだから正しいはず!
これに盲目的に取り組めばうまく行くはず!!
張り詰めて頑張った分だけ
結果が出るとそのやり方を捨てられなくなるし、
結果が出ないと、怒りに変わる。笑
親離れができた時の学び方
超遅いんだけど、独立してからはこういう学び方ができるようになった。
講座生ながら、先生のカリキュラムに対しても
「自分はこういう目的で参加したが、この場合はどうなるのか」
課題のフレームをアレンジして
このようにアウトプットしてよも良いか?
私のこのようなケースに、このフレームは使えるのか?
あるいは
自分の学び得てきたことから紐解くと
このようにも表現できるがどう考えるか?
良ければ他の参加者にも共有できるがどうだろうか?
と講師と受講生という垣根を超えて提案ができるようになった。
・
とはいえ、受講生として参加した立場だと
先生の器やメンタルによっては
「批判された」と捉えられたり、そういう提案を
求めていない人がいるので難しい。
相手によっては道場破りとも取られたりする。笑
相手の心情を十分に配慮できるほど自分に余裕があり、
かつ相手の懐が広いと
可能性が開けたりして面白いのだ。
独立後は「それ面白いね!」と言ってくださる方と
たくさんお会いできて
共にお仕事をさせていただくことがたくさんあった。
私自身も、講師をしながらも
いつもこの枠を越境してくる人に出会うのを求めているし
ある協会のハイエンド講座に行った時に、
そこの受講生と同じ視点で意気投合して、
講師側のフレームに対して
生徒と先生の関係を越境して
付加価値をつけるような提案を考えたりしている。
そういう意味で割と高額な講座への参加は
リターンが大きくて、辞められない。
「先生の言うことは絶対でしょ!」という
コミュニティは息苦しくて辛い。
安全だったとしても、誰かのしいた枠の中で
手のひらの中で泳がされる人生は過ごしたくない。