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ジョージアからგილოცავ ახალ წელს.

クリスマス、イブ(24日)にUZUで集まりがあったが、何だかハマらない。人が来ても何だか上手く話せない。その日の朝に一人見送ったからだろうか。

そして今年の予定は今年中に。納得のいく年越しになるのだろうか。
もう2025年を迎えてしまうが、皆の2024年はどうだったのか、来年の抱負はあるのか。
人の事ばかり考えても仕方がない。
自分の今年一年はドイツからスタートする。あの時のドイツでは自分がまた新たな一年を迎えるとあまり感じていなかった。通りで各自打ち出す花火大会を眺める時も2023年が終わるとは考えなかったし、来年は~とかいい年だったな~とかもなかった。それよりも、再来月にUZUの場所を追い出される事が頭の大半を占めていた。それに欲情もしていたような。はたまたぼおーーっとEisenbahnで沈んでいたのか。

2024年のこの無気力的な始まりは、2023年の日本帰国に関係していると思われる。日本に帰る前から、自分はジョージアで長く居過ぎたと感じており、その時はちょうど健さんがジョージアに帰ってくるタイミングで、自分も日本を離れて五年経つし一旦親に顔を見せに行こうとなった。
日本で良かった事は数少ない。高校の頃の同級生達が集まってくれたのには驚きと喜び、ジョージアで出会った人やドイツで繋がった先輩らにまた会いに行けた事、日本を出る前にお世話になっていた人達にも会えてよかった。が、三ヶ月の滞在のうち人と会ったりしていたのは一ヶ月弱。普段は実家で引き籠った。日本に帰るとこうなってしまう。することもないし、遊ぶ事もない。ただただ辛いだけである。おまけに夏だった。ジメジメとした熱気に心底嫌気が差す。
だから結局、何もしなかった。知らない実家の奥の部屋に自分の部屋が用意されていて、昔のゲーム機を実家に着くや否やすぐに引っ張り出し、引き籠り態勢ばっちり。あれだけ寿司食いに行きたいだの、焼き肉屋に行ってみたいだの、五年の間に言っていたのになぜ行かなかったのか。カツ丼屋にも居酒屋にも飲み屋にもゲーセンにも海や祭りや花火大会にも一切行っていない。ピザ屋にも山にも漁港にも神社にも定食屋にも行っていない。映画館でさえ本屋でさえ行っていない。一番行ってみたかったマンガ喫茶にでさえ入れなかった。なぜなのだ。
自分でも不思議である。前を通り過ぎたのは覚えている。でもなぜ入らなかったのか。きっと資本主義の感覚に抵抗があったのかもしれない。家で何か作って食べればいいやと結局どこにいても変わらないご飯を食べた。母さんとたまに晩酌。父さんとラーメン屋に時たま行くぐらいの外出。自分は毎日ビールか日本酒で昼から飲んではちょっと寝て、夜また飲んで風呂入ってと、とても贅沢な引き籠りライフを満喫。当然、日本人の女の子と良い事なんてあった訳もなく、、、

親は少し老けたが相変わらず。兄弟達が大きくなっていた事に時の流れを感じた。
そんなこんなで見送られ帰ってきたのが八月中旬。そこからも、何だかパッとしない生活が続いていたように思う。違うことは今までいなかった健さんが一緒に居るということ。パッとしないけどもUZUはとても順調に動いていた。パーティーへの出店、貯金もどんどん溜まり車を買うまでに至る。これは健さんが頑張ったのだが、自分はいつまで経っても何だかパッとしなかった。


そんな中、調子が良かった健さんはドイツで年を越そうと言い出した。パンチョリーナからの帰り道、盛大にスキップして帰っていたのを思い出す。
そんな流れでのドイツ。楽しかった事もあった。クリスマスは確かみんなで集まって飲んでいた。同い年の女の子が遊びに来ているとかで、久しぶりに顔を合わせたり他の人と何らかの事を話したり。
一度、落ちていたタイミングもあった。確かに姉さんらが家でエビチリするからおいでと言われた時だったか。健さんが初めどこにいたのかわからないが、姉さんらのところに向かった。
自分はEisenbahn113bに一人だった。久しぶりの一人、お風呂にも浸かり、一服出来るし、何なら姉さんの所には大量のエビチリが。行く準備も整えてた筈だった。風呂から上がって、暗い部屋で地面に敷かれたマットレスに正座で座ると、このままうじうじしていたいような感じに思えて、気がつけば、二、三時間経っていた。連絡も入ったが返信はしない。なぜ拒絶反応が現れるのだろうか。
姉さんらはエビを残してくれているようだった。心が温まるような、急に温められて痛いようなキリッとした感じ。結局、その日は行かなかったのを覚えている。
落ち込んだり、病んでしまうのは辛いことだが自分はその状況が好きなようで、たまにそんな時間はやってくるし、喜んで迎えている。何がどうなのかって原因とかが分かってる訳ではないが、そういう時は何にも手につかない。そこからどうやって復活するのかも分かっていない。気が付いたら何だかんだで日常に戻っている。だから毎度一人になった瞬間に出てくるのかもしれない。
だから今も落ち込みかけているのだろうか。

そんなこんなで、一月十日にはベルリンへ行き飛行機に乗り込む予定だった。ベルリンまでバスで移動。バス停に到着し降り立った訳だが、健さんのトランクが出てこない。置き引きされたと理解するのに二分弱掛かった。その後、警察呼んだり聴取受けたりでジョージア人の友達のところに着いたのは夜の十時半頃だった。フライトは五時間後に迫り、健さんは横で呆然としていた。一昨年財布を落とした事もあって、衝撃だったのは見えたが、めちゃくちゃ辛そうではなかった。
そんなお金も着替えもパスポートもない健史さんを置いて、自分はジョージアへ飛び立った。

ジョージア、トビリシに着いてから大忙し。新たな場所を歩いて探し回り、二月までの三週間程で次の活動場所が見つかるとも思えず、取り敢えず自分達の生活する場所も同時並行で探した。
その時、自分が抱えていたメンバーは浩平さん、希さん、秀さんの三人。自分一人で暮らせれば、もっと安く生きることも出来たが、そうなった場合、自分が一人きりで探し出して、移り住めるのかと不安だった。から自分が彼らを引き連れていたのだ。その結果は良かった。秀さんにはその間、良くお世話になった。活動場所を失ったけども、出張イベントやらないかと色んな所から声がかかり、お金も少しは生活費の足しにはなった。

そして三月、見つけた物件に移り渡った。一ヶ月で何とか見つけ出したのだ。ここに移り住んで今は赤字でヒイヒイ言ってるが、取り敢えず一ヶ月程で次の場所を見つけて活動が再開出来たのは嬉しく思っていた。移り住んで三日後には健史さんが到着。ここから改修工事の日々が始まる。
自分が一番初めに直したのはトイレ。その後、電気の配線とガスパイプ。ガスパイプはなんとか取り付けることができて、業者を呼べと言われたが、どのお店に聞いても自分で取り付ける方法を教えてくれるだけだった。
その後は健さん主導の元、屋根を取り付けたり、庭の真ん中にかまどを建設したり、壁に絵を描いてもらったり、水道工事に屋根の改修作業、セメント工事に解体作業。色々な仕事があった。

四月は姉さんらがドイツから遊びに来てくれて、その時にかまどの最終工事を一緒にして、オープンが四月中旬。古い人たちが沢山集まり、楽しい日だった。
姉さんらをトビリシで色んな所に連れて回り、クタイシまで車で送る。帰り道の寄り道、ツカルトゥボと野宿。壁に絵を描いてもらったり。

五月六月には後に一緒に住むことになる青年と出会ったり、ばあちゃんが遠路はるばる浩平先輩と共にやってきたり、ばあちゃんとの生活は何とも言い表せない面白い日々だった。友達を紹介したり、ご飯を毎日作って貰っていたのだが、毎回家の人間全員集まっての食事はとても楽しかった。
毎週木曜日のイベントは無理やりおばあちゃんの担当になり、まだ働かせるかと文句言っていた。
結局、暇でしょと言ったら渋々了解していた。
おばあちゃんを連れてゾノさんの両親と共にシグナギへ旅行にも行った。ゾノさんの母、面倒見の良いお姉さんですぐに仲良くしてもらった。
野外イベントに連れて行ったり、(そこでもご飯を作っていたのだが)ばあちゃんが見つけてきた美容室に一緒に行ったり、UZUでのパーティーに付き合わせたり、友達のジョージア人と韓流ドラマで仲良くなってたり(世代と国境を超える韓流ドラマ、恐るべし)、誰も日本に帰らせてあげようとせず、とても不安がってたり。会う人会う人にずっと居ればいいのにと言われ、心底ヤバいと感じたことだろう。
その間に耕三先輩が遠路はるばるドイツから到着。そしてDJタダヤンも時期同じくして合流。
大家族のようで、楽しかった。

七月には将が帰ってきて、ナオちゃんと出会って彼らにUZUを任せ、ばあちゃん連れてドイツへ。
ドイツで姉さんらのところにばあちゃん預け、健さんとEisenbahn113bを掃除。最後の二週間弱はゆっくり休めたと思われる。そして、旅人のミノ兄さんとも久しぶりの再開。初めて会ったのは十七歳の時、尾道で。その時はすごく優しい兄さんだったのだが、前回ドイツであった時には何らかの理由で色々と厳しい事を言われた記憶で、今回は距離を置いてしまってあまり話せず。それでもいつも通りカッコイイ兄さんであった。
ばあちゃんと着いてその翌日の木曜日、イベント日である。何も聞かされていないばあちゃんはゆっくり出来ると思っていたようで、ご飯作ってもらうで~なんて言ったら、何バカな事言うてんのなんて言ってたが、物事は進んでいき、結局日本の家のキッチンで何か作らされていた。その日は家の片付けもあり、日本の家に着いたのは夕方六時ごろ。ばあちゃんはお怒りである。姉さんからも何故伝えていないのかと𠮟られる。ばあちゃんに別に伝えなくてもいいでしょ、暇なんだからとは言ってはいない。
お怒り無視して、でもなんかやる事あった方がええやろなんて言ったが、ちょっとは80の婆さん労わったらどうやとどやされる。
ドイツの木曜日にもご飯を作らせ、こき使った二か月。帰れると分かった日は手をたたいて喜んでいた。どんだけ帰れるのか不安だったのか。姉さんらが色んな所へ連れていってくれ、ドイツ・ライプツィヒを楽しんでいたようだった。
日本にミュンヘンから送り返し、去っていくばあちゃんの姿を見送ると、やはり悲しいような空っぽのような。そして五日後、自分達はエジプトへ飛び立った。

夏のエジプトは猛暑も猛暑で、体感したことのない熱気に着いた瞬間から心が折れそうになる。ドイツでの穏やかな日常を既に懐かしく感じた。
夕方四時か五時頃着いたのだが、エジプトの事を何も調べていなかった我々は、空港から町まで向かうのにバスを予約しなければいけなかった事を知らなかった。そのまま何とか出ようとするも、空港から国道に出る道にも警察が検問を張っており、タクシーかバスでなければ通れないようだった。ヒッチハイクなんてもっと厳しいのだろうか。

町まで何とかタクシーで向かい、前日に予約した宿に到着。
どこもかしこも暑苦しい。夜になっても静まらぬ熱気。西の空が焼け、群青色の空が東から広がる時、「来てしまった」と痛感した。夕焼けを見送り、宿の部屋に戻るとエアコンが効いている。ちょっと湿気ている。外に出れば息するのも辛い熱気に包まれ、部屋の中は水気を含んだ冷気に包まれ、何だかどこにいても居心地の悪さに付き纏われる。

そこから街を移動し、移動し、移動した後、辿り着いたのは砂漠のど真ん中に位置するシワ・オアシス。首都よりも砂漠の真ん中だからか空気は乾燥しており、幾分か過ごしやすい。おまけにこのシワには昔の建築物の残骸が二つの岩山の麓に残されていて、その廃墟をずんずん進んで行くと北側の山のてっぺんまで登る事が出来た。
でも、悲しいことに自分達はエジプトにハマりきっていない。砂漠の暑さに、慣れない食文化に、エアコンの冷気で体は常にだるく、町から町へ移動するにもバスによる長時間の移動、五時間以上は当たり前で、目減りしていくお金を見つめ、酒を煽る日々。その頃になると、ホームシックを感じジョージアに帰りたいと二人して思い始めていた。二人してそんな弱音は吐かないようにしていた。そんな中、自分は健さんからまたこってり絞られる。一切気付いていなかったが、この旅は久しぶりの健さんとの二人行動だった。それでどう自分が動くのか密かに試されていたようで、フライト前々日辺りでこってりと絞られ、生気を失う。

シワの崩れた旧市街
ムスタファ大佐とシシャ
紅海
サトウキビのジュース

そして限界が近づく頃、何とかドイツまでのチケット買い、命辛々帰ったのである。
帰ったドイツは涼しく快適そのもの、八月後半。
エジプトからライプツィヒに着いた瞬間から健さんの親友のジョージア人ラシャとゲオギにばったり出くわし、感動の再開。エジプトの辛さがひとしおこの再開を帰ってきた感と共に、盛り上げる。姉さんらは自分達を温かく迎え入れてくれ、凄く癒された。
今度は姉さん達の部屋でお世話になり、健さんは郁姉の部屋で、自分はリビングのソファで寝ていた。ご飯も良く作って姉さんらと食べたし、湖に行って溺れかけたり、湖でご飯食べたり、姉さんに連れられて美術館に行ったり、兄さんの誕生日だったり、夏祭りがあったり、日本の家でゆっくりしてたり、耳かきしてもらったり、耕三さん所に遊びに行ったり、何より暇だったのでダラダラのんびりと過ごした。そんな中、ジョージアに帰るだけのチケット代が無く、日本の家でラーメンを作ることに。
ラーメンを作るのは別にいいのだけど、それでもずっと暇で誰かと良い関係になれないかと出会い系やらなにやらでチャラチャラしていた九月初め。一人からは嫌われ、もう一人とも終わっていたようで何とも言えない時間が訪れた。
悠さんが日本から来られるということだったので、久しぶり先輩お三方に囲まれ、楽しかった。

ドイツでのほうが日本に居る時よりいいもの食べているかもしれない。

そんな中、良いことがあった。ドキドキする良いことなのだが、自慢にしかならないので詳しく書きたいが、書かない。

そんなドイツが終わり、ジョージアに帰った九月後半。
将とナオちゃんが待っており、ちょうど鍋が完成したところだった。
ジョージアはクタイシに降り着き、空気を吸ったときに「帰ってきた」と感動、そしてまた後ろに置いてきたものもあるように感じた。今回のドイツからの帰国はとても後ろ髪引かれる思いだった。何せその時はもちろん、ドイツ中盤辺りから既に恋する高校生だった。
仕掛けてくるアクションが経験の無い自分にはとても魅力的に映ったのである。一度姉さんらにも相談した。朝起きてくる姉さんらに味噌汁を出しながら訊いた。
「何だか最近距離が近いんよね~、それでドキドキしてしまうんやけど、、、」なんて相談したら、姉さんらは「絶対無いから、その考えは早く捨てなさい」とそんなものかと一回は納得したものの、日本の家で見かけると少しドキッとしてしまう。姉さん家にもお風呂を借りにやってくる。
邪な考えを何度振り払うも、近づいてくるドキドキ感。こりゃあおかしいわと思うも、ドキドキすることは悪い気もしないので、放置していた。で結果、ああなってしまうのだが、憧れの日本人で、ましてや日本の家で一緒に活動していた姉さんと!!。
そして日本語で色んな会話ができる。日本人女性にトラウマがあった自分はそんな事になるなんて思ってもいなかったし、色んな事が吹っ飛ぶ衝撃的な恋愛だった。
トビリシの家に着き、将とナオちゃんとこれまでの事を色々と話していると気分は落ち着く。家だからだろうか。

貰ったブドウでジュースを作った。

十月には莞爾兄の修行中のワイナリーへぶどうを収穫手伝いに西ジョージアへ。
ゾノさんとじゅんぺいさんを引き連れ、色んな所を行ったり来たり。
山間をずんずん進み、流れていく車窓をあの娘とも見たいなと密に思っていた。
莞爾は相変わらず元気そうで、僕らがバトゥミに着くころには莞爾は宿の前で待っていた。心待ちにしていたようで、その後始まる飲み会は夜中まで続き盛り上がった。
翌日のぶどう収穫に二時間遅れで現地到着。もちろん皆二日酔いで、朝もガンガンと響く頭を抱えてブドウ畑に向かった。途中の村でまた莞爾の音頭でチャチャをキメる。到着するも人数もいるせいですぐに収穫が終わり、その場で簡易的なお祝い(宴会)を開始。
その後、ワイナリーまでブドウを運び、一晩かけてブドウを潰し、甕に流し込む。十か月程で完成だ。

そこからは色々なことが目まぐるしく動いていく。
UZUは金欠になっていき、自分の誕生日には大勢集まって朝から晩まで飲み干したり、友達とパーティーに行ったり、先輩らとキャンプしたり、カレー屋計画も進み始め、ナオちゃんが去って行ったり、仁もどっか行くし、ピザ作ったり、ラーメン作ったり、チーズケーキを初めて作ってみたり。
ジョージアは自分の誕生日辺りからデモが激化。催涙ガスと放水に対抗すべく、市民は花火を手に取り、国会議事堂目掛けてぶっ放す。警察もだんだんと容赦が無くなり、女だろうと子供だろうと殴り倒し、おばちゃんだろうと目掛けて放水。
きっかけは、今の与党が親ロシア派だということ。この前の議席数を争う選挙は違法な選挙だと西洋諸国は言い張り、国民(若者大多数)はFu◦kロシアで踊らされている。何だか色んな事が胡散臭くて信じられないことが多い。だが、友達はデモに参加している人も多く、複雑な気分である。


十二月には気になるあの娘が遊びに来た。「ケリ付けに来たわ」と言いながら現れる彼女を見てると可愛くて何とも微笑ましい。ケリっていったいなんだと思っていたがとにかく別れるとかじゃなくて一安心。そこからクタイシ、トビリシと案内し、自分も久しぶりのデートで緊張しっぱなし。今までもデートしてきたが、お家デートか散歩デート。彼女とどこか行くなんて初めてのことで、色んな姉さん方に訊いて回った。
楽しかったが居なくなったら、激しく憂鬱な日々が訪れた。なぜなのか。
今でも電話したり手紙送ったりしているのだが、心の一部が失われたかのよう。

そして年末、年越しはゾノさんと健さんと過ごし、新年もゾノさん引き連れ朝までパーティー。三日目はボロボロの体でジョージアのお母さんこと、メデアさん宅へ。
お父さんことマホさん達と何度も乾杯し、帰ってきた時にはぶっ倒れてしまった。
ジョージアの文化で新年に会いに来てくれた人達はその年また深くかかわりがあるとかないとか。
気が付けば、新たな年を迎えて五日目。
さて、皆はどんな年越しでしたでしょうか。ちゃんと振り返りが出来て、新たな年を気持ち良く迎えれたことを祈ってます。
元気よく今年も良い波に乗っていきましょう。各々今年の抱負等あると思いますが、何より健康一番。
健さんは新年早々、胃を壊しており横から心配している自分であります。
自分の抱負は言うなれば、「大人としての自覚を」といった感じですね。そして自分の我儘を通せるように動いていきたい。気になるあの娘のもとへ行かなくてはならないし、エジプトへの遠征も控えているし加えてアラビア語習得。ジョージアでのカレー屋も未だ始まっておらず、色んな事がまた始まりそうでワクワクする予感があります。
UZUでは今まで住んでいた人達が年末前にポンポンと抜け出していき、健さんとの寂しい日々が流れておりますが、一人でないだけマシってな訳で元気に過ごしています。

さて、今年もよろしくです。
頑張っていきましょう。


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