国民性
5月26日、2019
私が生まれた地は、もしかしたら違ったかもしれない。 私が育った地は、もしかしたら違ったかもしれない。 そしたら私はまったく違う人になっていたのだろうか。 これは、日本人の僕がアルバニア人の友達と話したときに感じたことである。
私という存在は、私が生きるなかで関わってきたすべてによって構築される。それは文化であり、社会であり、歴史という言葉で表される。 文化が違えば見方は変わる。私たちはそれぞれの国にあった色眼鏡をもっているわけで、その眼鏡ごしに世界を見ているに過ぎない。 私たちはある意味で分類することによって世界を理解しようとしてきた。分かるの語源は分けるである。日本人と外国人、男性と女性、資本主義と社会主義のように世界を分けることで自分の世界を知ることができたのである。 でも少し思うのは、「それだけじゃない」ということなわけで、というのも私たちが何かを分けるときに同時に何かがこぼれ落ちているような気がするのである。そしてそのこぼれ落ちる何かに大切なものがあるかもしれないとも感じるのだ。 私とそのアルバニアの友達はまったく違う人である。生まれた地も育った地も違う。でもむしろ私たちはその違いの中で生まれる、こぼれ落ちる何かによって繋がっているのではないか。 私たちは色眼鏡を通して世の中を見ることに注意を払わなければいけない。 それぞれのノーマルがノーマルなのだと言えなければならない。 その人が生きてきた世界が良くも悪くもその人を作り上げている。 私はまったく違う人になっていたかもしれない。 しかし、それも私であってその存在の価値に違いはない。 なぜなら違う人になったとしても、私は私にしかなれないからと思うのである。