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日記 3/6

祖父が亡くなりました。今朝、母親からの連絡で、寝ぼけたまま知りました。

真っ先に頭に浮かんだことは、「帰省の荷造りしなきゃ」でした。そこに面倒臭さのニュアンスは含まれていない、ということを付け加えさせて下さい。

「自分はどうしたらいいのか(何を持って、何時、どのような手段で地元に行くのか、どのくらい帰省する必要があるのか、という意味です)」と確認すると、「遠いから帰ってこなくていい」と返されました。この判断が母親に拠るものなのか、祖母乃至父親の家系(亡くなったのは父方の祖父です)の人に拠るものなのかは分かりません。兎も角、素直に僕の負担の配慮をして頂いたようです。一方で、ある大学の友達の親戚が亡くなった際には、その友達は暫く帰省していたので、本来は自分も行くべきなのだろうなと分かり、少しだけ疎外感もありました。

上記のような事情から、連絡事項は他には特になく、母との通話は30秒程度で終了しました。それから、少しずつ頭が目覚めてくるにつれ、「あれ、こういう時って普通悲しくなるんじゃないのかな」という思いが、生まれ始めました。無感情サイコパスイキりをしたい訳ではありません。寧ろ感受性は豊かな方だと思います。しかし今日の訃報に対しては、普段行かないスーパーが閉店する、といった程度に実感のない、乾いた思いしか持てませんでした。

それから、毎週楽しみにしているアニメの録画を視聴し、朝ごはんを食べ、それから珈琲を淹れて本を読みました。お昼すぎにはサッカー中継を観戦し、好きなチームの得点に狂喜乱舞していました。

「類は友を呼ぶ」とはよく言ったもので、僕の話を聞き、理解し、寄り添ってくれる友人たちには、僕と同じようなメンタリティを持っている子が多く、それ故に僕は彼らと互いに理解し合えている、と思っています。そして、そのような彼らは、俗に言う「メンヘラ」というカテゴリーを自負し、時に自分の存在価値、生存を否定するような発言を繰り返すことがあります(勿論、強い心を持った、頼もしく逞しい友人もいます、悪しからず)。

自分の存在の管理などは他人にとやかく言われるものではなく、はっきりいって僕に彼らの自死を止める権限は無い、と思います。しかしそれは、行為のベクトルを死へ向けた彼らに何も働きかけなくてもいいということではなく、僕の出来る精一杯のエゴイズムで、「生きてほしい」、と伝えたい(「伝える必要がある」と表現すると、何かしらの外からの強制力によるもののようにも捉えることが出来るので、敢えて願望のような表現にしました)、と思っています。

彼(彼女)本人が「消えてしまいたい」と思うほどの苦しみ、悲しみは、僕に分かり得るものではありません。それでも、その存在が消えてしまうことは、少なくとも僕にとっては悲しいことです。本当にこれは、僕自身のエゴイズムに過ぎないものであり、失礼なことなのかもしれないです。しかしそれでも、誰かの「悲しい」が、友人が生きる動機になってくれれば、僕も嬉しいことだと思います。これは僕にとっての本心だと、ずっと信じていました。

しかし今日、祖父という近親の死に、厚みを持った実感すら持てなかった自分を目の当たりにし、どんなに望まずともいずれは訪れてしまう友人の死に対して、僕は本当に悲しむことが出来るのか、僕は無責任な信条を掲げていたのではないのか、そう不安になってしまいました。

不特定多数に救助を求めることが出来る点で僕にとって非常に優秀なTwitterというSNSですが、最近言語化に対し尋常ではない疲労を感じるようになったこと、(これは偏に自分の意思の弱さのせいですが)知らぬ間にかなりの時間を取られていることなどから、その利用にかなりのストレスを覚えることが増えました。よって助けを呼びづらいです。

一方で言語化に疲労を感じていることから、心の中を上手く表現できず、コミュニケーションを放棄してしまうかもしれません。本当に自分勝手だと思います。すみません。

しかし、助けて欲しい、と思う頻度が増えています。

もし貴方が優しく、余裕があるのならば、よかったら、いつもより少しだけ、気にかけてやってください。救われます。

追記:実の祖父の死に対して、心の底からの悲しみを覚え得ない自分が本当に嫌であり、祖父に対して申し訳なく思っています。客観的に見ても「孫」として人間性が歪んでいると思います。

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