003_「言語で思考し続ける力」の意義
思考の大切さを敢えて言挙げする
前稿で、「言語で思考し続ける力」を構成する大切な力の一つに「論理を理解する力」がある旨を述べました。つまり「言語で思考し続ける力」を構成する力には「論理を理解する力」以外にもある訳ですが、そこに言及する前に、そもそも「言語で思考し続ける力」にはどのような意義があるのか、一人ひとりの人生や、現実の社会において、なぜこのような力が大切と考えるのかについての私の想いを述べておこうと思います。
「どのようなものであれ、思考というものが大切であるのはわざわざ言挙げしなくてもわかっているよ」との声が聞こえてきそうですが、それでも、私の想うところを、拙いながらも述べてみようと思います。
伝達内容を正確に受け入れることの困難さ
私たちが、この現実社会において、言語によるコミュニケーションを相互に行う場合には、得てして、伝達内容を担う言語群を構成している個々の言葉に関して、相手が定めている定義や「言葉と言葉の連関」すなわち「論理」を正確にトレースするのではなく、個々の言葉からの自由な、換言すれば、取り止めのない連想によってイメージを想起したり、自分の考えやすい論理を組み立てたりすることにより、相手から発せられる伝達内容をきちんと理解している気になっている、という傾向があります。
であるとすれば、言語群が担う伝達内容というものは、その受け手が異なれば、その数だけ異なるイメージや論理に変換されてしまうわけですから、上記の程度のコミュニケーションの有様では、一方から発信された伝達内容が、そのまま正確に他方に受信される保証はどこにもありません。
この点、コミュニケーションの相手が、ずっと付き合っている、気心が知れている仲間であれば、相手の価値観、思考方法、使用する言葉の定義、そして表情が示す感情などを知悉していることから、相互の伝達内容を、高い確率で、意識の集中度合いも少なく、相互に理解することができ、アンタと話すのって本当に楽しいよねえ、と双方ともに感じることになります。
もちろん、その「感じ」は、私たちが他者と話すことで味わう幸せの醍醐味です。しかしそれとは別に、例えば、ビジネス、学業、均衡を図るべき他者との利害調整といった領域において、対話を行う相互の者が、物事の認識・把握の仕方に強い影響を与える社会伝統、価値観、文化、生活環境等が異なる者であるときに、その相互に発するところの伝達内容が正確に理解されるためには、少なくとも、その伝達内容を担う言語群を構成する個々の言葉は明確に定義されていること、そしてその全体が論理で構築されていること、といった条件が必要です。さらには、その伝達内容を受ける者が、そこに含まれている言葉の定義や論理を正確にトレースする訓練を積んでいる、といった条件も必要になります。
しかしながら、現実社会におけるコミュニケーションの場面で、このような条件が律儀に揃うことは滅多になく、かえって、言語によるコミュニケーション活動自体が、現実社会における誤解、不和、怨嗟といった負の蟠りの醸成に貢献してしまう、ということになります。
社会に蟠る誤解、不和、怨嗟を解消する
ここに、私たちの一人ひとりが「言語で思考し続ける力」を培う意義があると私は考えます。この社会に蟠る誤解、不和、怨嗟を、少しでも解消していくために本当に必要であるのは、自己の主張を声高に押し付け、他者を屈服させることでも(「論破」とかいう形態のものも含む)、特定のテーゼを標榜する自己満足的な思想活動でもなく、一人ひとりが自らの言語能力を最大限に賦活するための訓練を謙虚に行う、これしかないのだと思います。
一人ひとりが、自らの発する伝達内容を担う言語群を、論理で一貫しているものに仕上げる訓練を積むこと。そして、相手からの伝達内容を担う言語群を構築している論理を正確にトレースする訓練を積むこと。これらの営為を推進する仕事を進めることが、私のやりたい仕事、すなわち「『言語で思考し続ける力』を培う場を提供し、一人ひとりの善い生の実現に資する仕事」なのです。
と、大仰な仕事の理想を、それこそ取り止めもなく述べてしまいましたが、うーん、そんなもんできるんかいな(笑)