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海をあげると言われた後。

沖縄に住んで19年。
最初は自分探しとか、そんなことだったのかもしれないけど
いつの間にか家族もつくって、もうすぐ育った熊本より長く住んでいる場所になる。

琉球大学教育学研究科で、未成年の沖縄の少女たちの支援・調査をしている上間陽子さんのお名前は当然知っている。
前著の「裸足で逃げる」は、読んでいない。
読むと見て見ぬふりをしている沖縄の何かを突きつけられそうで怖かった。今の生活のバランスを崩すのが怖かった。

同じ理由で今作の「海をあげる」も読みたくなかった。
それでも「本屋大賞 2021年ノンフィクション本大賞」を受賞され、その授賞式のスピーチのYouTubeが友人のタイムラインで流れてきた。

僕は勝手に上間陽子さんの人物像を、金切り声をあげて、声高に、怒りを爆発させ、何か強い語気でまくしたてる人だと思い込んでいた。そんな自分を恥じた。

そこに映っていた上間さんは、静かで穏やかで優しくて。それでいて内面に人間のあらゆる汚い感情を燃料にしたごみ処理施設のような炎を燃やしている人だと感じた。
内面の炎と、出てくる声と言葉のギャップが恐ろしく美しかった。

そして(辺野古とは別の)軍港が作られるという浦添の海の向かいにある大型ショッピングモールに入っている書店で、この本を買った。

文体がどこまでも透明で、沖縄の多くの人が持つ日常にユーモアを混ぜ込むセンスは、親しみさえ湧くものだった。
後半にかけて、上間陽子さん曰くいろんな”仕掛け”がしてある箇所に至っても、その透明感と親しみやすさは保たれたままだった。

約20年に住んだし、これからも住んでいく沖縄。
文中に出てくる上間さんと娘さん。その二人が暮らす半径5kmの近所で僕も同じ年頃の子どもを育てている。

そんな狭い範囲の中でも
僕が生きる沖縄と上間さんが日々見ている沖縄は
随分と違うように思う。
例えば、オスプレイの爆音も、ちょっと飛行ルートからズレているからか、こんなに近所なのに日々意識することがないくらいなのだ。

でもそれは、本当だろうか。
そう言えば、先週次男を保育園に迎えに行った帰り
マンションをかすめるんじゃないか?と感じる高度で飛ぶ軍用機をみた。

たしかに見ているのだ。

という事は、今日並んだコンビニのレジで同じ列に並んだ子が
上間さんの調査対象になるような子なのかもしれない。

例えそうだとして、僕がその子のパンやご飯を買ってあげることはできない。

僕はこれまで、自分と自分の家族が幸せになることが、親として社会人としての最低限守るべき責任だと思っていた。
世のため、人のため、沖縄のため。などということは、自分と自分の家族を成り立たせてから言え。そう思っていた。

それでも、かれこれ20年、沖縄にいる。自分が成り立とうがまだまだだろうが、見えている沖縄を、自分事として捉えていいのではないだろうか。
いや、そのくらいはやって当然だ。僕はそれくらい沖縄にお世話になった。育ててもらった。

今の沖縄は、僕の一部でもある。

文末で上間陽子さんから、投げかけられた最後の一言。
この矛盾と悩ましい課題が目白押しの沖縄に生きながら、
これからも何度も反芻しようと思う。

#海をあげる

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