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宅録ナレーターはじめました。
はじめまして!駆け出しの宅録ナレーター・こみ まみこと申します。
数日前からココナラで宅録ナレーターとしての活動をスタートしました。
宅録ナレーターとしての経歴や実績はまだありませんが、この活動をはじめたきっかけについて書いてみようと思います。こみまみこって、こんなやつなんだ〜と少しでも知っていただけたら嬉しいです。
※以下、ココナラブログでも書いた内容と同様のものになります
わたしが声の仕事を目指すようになったのは小学生のとき。祖母や学校の先生に「声がきれい」と褒められたことがきっかけです。
そのとき母からだったか祖母からだったか記憶は曖昧ですが「まみこは声優になったらいいんじゃない?」と言われ、単純なわたしは声優になる!と宣言するようになりました。
変に一途というか猪突猛進というか、その夢は高校生になっても変わることはなく、わたしは両親を説得して某声優養成所に通います。
ちなみに両親を説得するのはほんっとーーーに大変でした!!毎晩のように泣いて泣いて拗ねて泣いて拗ねて…を繰り返し、バイトでコツコツ貯めた貯金を振りかざし「自分で稼いだお金で何しようが勝手だ!」といつの時代の頑固オヤジだよというようなことを叫んだりもしました。
もちろん余計に火に油を注ぎました。今思い返せば当たり前のことですよね。
そして両親との攻防の末、なんとか養成所に通うことにOKをもらえたわたしは、念願の声優養成所に通うことになりました。
こちらの養成所は半年間の基礎科でのレッスン後、進級審査があってそこからまた半年間の本科レッスンがあるという制度でした。
結果を先に言ってしまうと、基礎科から進級することができませんでした。
講師の先生と話す機会があった際に「あなたはおそらく進級審査は受かると思う。でも本科に行くことを目的にせず、もっと先を見据えなさい」と言われたことがあり、
わたしの単純な性格が悪い方に作用してしまい、先生が本来伝えたかった本質に気づかず「進級審査は受かると思う」の部分に舞い上がり受かる気満々でいました。
もちろんそれを周りの人たちに態度で出したことはありませんが、心のどこかで自分に甘くなってしまっていたと思います。日々の練習も怠ることが増えたかもしれません。
神様の怒りをかってしまいました。
進級試験当日、雪で電車が動かず大遅刻しました。
ちなみに進級審査の事前説明会で、遅刻した場合はいかなる理由があっても審査を受けることはできないと言われていました。
でも田舎から何時間もかけて半泣きになりながらやってきたわたしを見て事務の方が不憫に思ったのか、クラスの一番最後に審査を受けさせてもらうことになりました。
この遅刻が審査にどこまで影響したかどうかは分からないし、たとえ遅刻してしまったとしてもそれを忘れさせるくらいのものが出せていれば受かったんだろうと思います(ある意味インパクトは与えられたし)
進級審査に落ち、めちゃくちゃショックだし落ち込みました。
自分の実力不足や努力不足を棚に上げて、遅刻しないように試験前日から養成所近くのビジホに泊まりたいと頼んだのに了承してくれなかった両親を心の中で恨んだし、そのせいで落ちたんだと両親のせいにもしました。
そんな感じで審査当日の大遅刻から結果が出て以降、とにかく落ち込みまくっていたわたしの姿を見て、これで気が済んだだろうと両親は思っていたようですが、わたしはまったく諦めていませんでした。
大学進学後、今度は別の養成所に通い始めます。こちらの養成所は基礎科一年、本科一年ののちに事務所の所属審査があるという制度でした。
高校生のときに通っていた養成所の授業内容とか雰囲気が自分に合っていたのでもう一度そこに通いたかったのですが、やはり審査の日に遅刻したということが自分の中で大きく引っかかっていたので泣く泣くやめました(自業自得ですね)
新しく通い始めた養成所は、大学へ通う定期が使えたこと・授業料が安かったこと・週一回のレッスンだったことというのが当時の自分の条件に当てはまっていたのですが、
入所してから「養成所選び失敗したかも」と思うことが何度もありました。条件面でばかり選ばず、もっと調べてから通うべきだったと後悔しました。
そう思った理由は色々あるんですが、なんといっても一番は講師の先生ととにかく合いませんでした。
機嫌がいい日と悪い日の態度が全く違うし、とにかく自分が言った通りに芝居をしないと感情的になってブチギレる…。
忖度なく指導してくれるのはありがたいし、それをわたしたち生徒は謙虚に受け取めなきゃいけないことも分かってはいるけど、論理的とはかけ離れた、己の感情だけでぶつけてくるのが苦手でした。
彼の中にはもう完成された世界観があって、そこから一歩でも踏み外そうもんなら怒鳴られるんですよね。
クラスメイトとは「将来現場に出ることになったら監督の求められている芝居ができないといけないから、その訓練だと思って頑張ろう」と励ましあっていました(そういったこともあってクラスメイト同士の結束は強かった)
どんなに疑問が浮かんでも理不尽だと感じても「それが求められているものなんだ」と思って自分なりに頑張っていましたが、
なにがツライって前述した通り気分屋なので、例えば先週褒められた芝居が今週には全否定されたりするのです。
しかも滑舌が甘いとかそういう根本的なことではなく例えば、このときの感情は『悲しい』と解釈して演じる→先生によく心情を理解していて素晴らしい!と褒められる→翌週も同様に『悲しい』を演じる→そこは悲しいんじゃなくて嬉しさを出すところだろ!!と180度違う意見で怒鳴られる。
え、わたしの記憶違い?と思って違うチームで同じ役を演じていたクラスメイトに確認したら「記憶違いじゃないよ。先生が先週言ってたことと全然違う。だってわたしが先週嬉しそうに演じたら逆にボロクソ怒られたじゃん」と言われたり。
そんなことが一度や二度じゃないので後半はかなりモチベーションが下がっていました。
もう辞めようかなぁと思ったりもしたのですが、かといって他に通いたい養成所に目星がついているわけでもないし音を気にせず毎週思いっきり基礎練をする場所も欲しいし、とりあえずあと少しだから辞めずに頑張ろうと決めました。
結果は本科へ進級できませんでしたが、こちらの事務所に関してはショックではありませんでした😅
滑舌とか発声についての基礎的な部分は格段に向上したし、通常より安く専門学校に通えたと思えばいいや〜と思っていました。
そして養成所選びは慎重にしなきゃいけないなと痛感したわたしは、有名な事務所かどうかではなく自分がやりたいことに強い事務所を探そうと決め、とあるナレーター事務所の養成所に通い始めます。
それと同時に就職と上京をします。
両親からは上京含めて声の仕事に就くことを相変わらず反対されていたので、以前通っていた養成所の友達とルームシェアすることに決めて半ば強引に家を出ました。
新しく通い始めた養成所は社長との距離がとても近く、社長自身も気さくな方だったのでレッスンをよく見ていただきました。
結果わたしは一年経たないくらいだったかな?で、事務所に所属することができました。
宣材写真を用意したりボイスサンプルを作ったり、とにかくバタバタと所属後の一ヶ月は過ぎて行きました。
それから間もなくして事務所から「○月○日と○月△日をキープしてください」と順調に声をかけていただけるようになりました(バラシになることの方が多かったけど)
当時わたしは都内の百貨店で正社員として働いていたのですが、休みはとりづらいし有給なんてあってないような会社だったので休みを取得することもどんどん難しくなっていき、退職することに決めました。
両親は相変わらず声の仕事に就くことを反対していましたが、仕事を辞めること自体には反対していませんでした。
ただ、仕事を辞めたことによって地元に帰ってこい&声の仕事なんて諦めなさいコールが倍増…。
それを突っぱねてフリーターの道を歩み始めたのですが、毎日のように「事務所なんて辞めなさい!家に帰ってきなさい!就職しなさい!」と電話がかかってきてノイローゼ気味になっていきました。
今思えば、心配する両親の気持ちはめちゃくちゃ理解できるし、両親を安心させられるような仕事の実績を作れていないわたし自身の力不足が原因でしかないのですが、
当時のわたしは母親からの着信があるたびにキリキリと胃が痛むのを感じていました。
そしてある日ついにその思いが爆発し、人の夢を邪魔するつもりしかないならもう二度と電話をかけてくるな!と号泣しながら猛抗議。
親からの電話がくるたびに胃が痛くなるし胸が苦しくなる、これ以上何か言ってくるなら縁を切っても構わないと話しました。
そこで両親もわたしがそこまで思い詰めていたと気づいたのか、怒鳴ったりすることなく冷静に親としての考えや心配していることを話してくれました。
「まみこが真剣に声の仕事をしたいことも分かっているけど、親としては心配だからこれからも反対する意思は変わらない。小学生の頃にまみこの声を褒めたことに責任も感じている」と言われました。
わたしはそういったことも全部理解したうえで「応援してくれとは言わないけどとりあえず一年間は自由にやらせて欲しい。両親を納得させられるような仕事に携われなかったらそのときは就職する」と言い、両親はしぶしぶ納得。
毎日のようにかかってきていた電話も減りました。
これからの一年間はとにかくカタチに残る仕事をしなければいけないと躍起になっていました。
が、ここでわたしは『事務所に所属しているがゆえの壁』にぶつかることになります。
仕事を自分で見つけてくることができない!!
例えば自主制作のドラマCDのオーディションに参加しようと思っても事務所の許可がいるし、友人と朗読サークルを作って公演しようと思っても事務所の許可がいるし、事務所によって違うんだろうけどSNSも禁止されていました。
そして一度わたしはとある朗読劇の公演に参加したい!と思い、事務所にお伺いを立てたことがあります。けれど残念ながら了承はもらえませんでした。
その理由は「じゃあその朗読劇の練習日に、事務所からの仕事が入ったらどうするの?」でした。
それを言われるともうなにも言えねぇやとなったわたしは、自分で仕事を見つけてくることを諦めました。
事務所によって方針は異なるとは思いますが、表に出せる実績であろうとなかろうと事務所に所属するということはこういったデメリットもあるのだなと思いました。
(ちなみにわたしの養成所時代の友人もわたしとは違う事務所で預かりになった際に、全てのSNS閉鎖、趣味も兼ねて組んでいたアニソンユニットの解散を命じられていました)
それからのわたしはバイトと事務所からの連絡を待つ日々を送りました。
同じ夢を持つ友人たちとは表立って発表会などをすることはできなくても、頻繁に会ったりスカイプを通して練習していました。
お金がないなりに、お互い原稿を持ち寄ったりして「ここはこんな指摘をされた」「この題材の解釈はこうなるらしい」などと、事務所の定期レッスンと併せて練習を重ねていました。
でも相変わらずスケジュールのキープがあってもバラシになることばかり…。そんな日が半年以上過ぎた頃、事務所からの連絡が途絶えました。
あぁ、終わったな…と思いました。
それは、両親を説得できる仕事ができなかったというのはもちろん、自分自身の実力のなさを理解してしまった瞬間でもありました。
挫折感。
自分に声の仕事は向いていないんだと思いました。
そして事務所の契約更新の際に事務所から「次の契約はなしでお願いします」と言われました。分かりきっていたことだったのでショックも受けませんでした。
こんなふうに書くと強がってんじゃねーよ!と言われてしまいそうですが、清々しい気持ちもありました。謎の開放感というか…。
声の仕事に就きたくなくなったのかと聞かれたらそれはNOです。声を大にしてハッキリと言えます。
でもなんかもう自分の中でやりきったなという思いもありました。両親からも色々と言われなくなるだろうという意味での安堵もありました。
これからは趣味で声の活動をしようと決め、両親に言われた通り地元に戻って就職しました。
運良く仕事はすぐ見つかり、某観光施設で正社員として広報の仕事をしました。雑誌の記事を書いたり、校正・リライトしたり、イラレでポスターなどのデザインをしたり、取材にきたメディアの対応などを中心に行いました。
観光に来たお客様向けに園内説明をするのも広報の仕事でした。
大勢のお客様の前でマイクを通して話すのですが、終わったあとに「綺麗な声してるわね〜」とか「アナウンサーみたいで聞きやすかったよ」とか言われるのが嬉しくて、このときも外郎売だけは定期的に練習していました。
その後2年ちょっと勤めたその会社を退職し、私立高校の図書館に転職しました。
転職の理由は色々とありますが長くなるので割愛。
図書館に勤めることにしたのは単純に子供の頃から本が好きだったので決めました。
この学校は図書館といっても、教室に行けない生徒の勉強スペースであり生徒のお悩み相談室みたいな感じでもありました。
室内がシーンとしていることはなくて図書館としてこれでいいのか?と思いましたが、校長先生から「教員とは違う立場で、お姉さんのような感じで生徒たちの話を聞いてやって欲しい」と言われたのでそのように対応していました。
ここに勤めていたとき、生徒の書いた作文・論文の添削を頼まれることが非常に多く、その文章がコンクールで入賞したことも度々あったのはわたしのプチ自慢です😊笑
もちろん生徒の力があってこその結果ですけどね。
生徒たちとの関係は良好でしたが、ある事務員の人に目をつけられてしまい、無視されたり嫌がらせで仕事を教えて貰えなかったり、逆に「何故こみさんがその仕事をさせられてるの?」と周りから心配されるような仕事を回されたりしました。
一時期まじで病みかけましたが、自分を頼ってくれたり慕ってくれている生徒がいたので負けずにがんばることができました。
そしてもともと負けん気が強いこともあって「ていうか言いたいことも言えずに遠回しな嫌がらせをして自分の不満をぶつけてくるような陰湿人間に振り回されるのアホくさくね?」とあるときを境に吹っ切ることもできました。
このときはもうほぼ声の仕事に関しては頭にありませんでした。考える余裕もなかったし、そもそも考えないようにもしていました。
嫉妬心を止められないのは分かっていたので、事務所に所属したり夢を追い続けている友人の情報をシャットダウンしました(着拒するとかではなくSNS関連は見ないようにしていました)
そして図書館に勤めて2年、結婚を機に退職。
その後パートでとある施設のインフォメーションで働き始めたのですが、そこでわたしは再び声の仕事に触れます。業務の一環で館内放送をすることになりました。
久しぶりにマイクを通して自分の声を誰かに聞いてもらうということが本当に楽しくて、お客様から「今の放送あなた?かわいい声してるわね」と褒めてもらうことがあったら空も飛べるんじゃないかってくらい嬉しくて。
やっぱり声の活動が好きだ!声の仕事をしたい!と改めて強く思いました。
そしてわたしは色々と調べた結果『宅録ナレーター』の存在を知りました。
家族の生活環境や今後予想される生活の変化、収入面はもちろん長期で続けられる見込みはあるのか、そもそもフリーランスなんて自分にできるのか?向いているのか?
良くも悪くも単純で楽観的な性格のわたしはなにごとも「なんとかなる!」で突き進むことが多かったのですが、今回ばかりは慎重にネットで情報を集めました。
同時に、滑舌など基礎的な部分において自分の喋りはまだ大丈夫なのか、当時の台本やら原稿やらを引っ張り出して練習を重ねました。
久しぶりに声に出した外郎売。現役時代と比べたらまだまだでしたが、それでも『声の仕事』に向けて練習をしているということだけで楽しくてたまらなくて。
読みの技術、機材の扱い、営業活動…。
不安な気持ちを消すことはできなかったけれどとにかく練習して、なんとかカタチにできそうかな?と思ったので機材を購入。ボイスサンプル用の台本を書いて、収録開始。
これが仕事として通用するのか、お金をいただいてもいいクオリティなのか。事務所に所属していた現役時代、スケジュールがバラシになってばかりだったことを思い返しては不安になりました。
それでも、自分の声で他の誰かの活動のお手伝いができたらこんなに幸せなことはないだろうなって心から思うから、
今のわたしができるものを100%出しきって、求められているものに誠実に丁寧に取り組んでいきたいと思うんです。
そんな前向きな気持ちも、不安な気持ちも嘘偽りない今のわたしの気持ちです。
宅録ナレーターとしての道を歩み始めたばかりのわたしですが、毎日こつこつと頑張って昨日より今日、今日より明日、スキルアップしていきたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします!!