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小さいお店と大きいお店
前回、食べ残しについて書きましたが、今回は、僕が関わった飲食店の思い出です。
米の子を創業してから11年半近く経ちましたが、それ以前、飲食店での仕事経験は、あまり多くありません。
働いたことのあるお店は、以下の通りです。
・個人経営の寿司屋(新中野):接客と洗い物、掃除など
・チェーン店のラーメン屋(赤坂見附):調理(餃子)、接客など
・上記ラーメン屋の別業態の居酒屋(京橋):接客と洗い物など
・大手企業経営の自然食ビュッフェ(銀座一丁目):洗い物、掃除など
ラーメン屋で餃子を仕込んで焼いていた以外は、ほぼ調理経験がありません。
餃子は、セントラルキッチンで加工された具を店舗で皮に包むだけなので、包丁を使う必要がありませんでした。
いま思えば、こんな経験不足でよくぞ飲食店を始められたものだと、我ながら呆れますね‥。
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初めて働いた飲食店は、親方が一人で切り盛りする、こじんまりとしたお寿司屋さんでした。
東京メトロ丸ノ内線の新中野駅改札から歩いて一分ほど、青梅街道に面した『寿し屋のしま勘』というお店でした。
当時、僕は30歳手前でまだ劇団員だったのですが、劇団は日給月給制で、年間に100日くらいしか仕事がありません。
なにかとお金が必要な時期でもあり、公演のない時期は、昼夜でアルバイトを掛け持ちしなければなりませんでした。
ある日の夕方、自転車に乗って夜のアルバイト先を探していたところ、店先に貼ってあった募集を見つけてそのままお店に飛び込み、すぐに採用されました。
店内はカウンターが7、8席と、二人掛けのテーブルが一つだけ。
調理は親方がカウンター内で一人で行い、アルバイトの仕事は、お客さんに飲み物やお茶を出したり、食器を下げたり、洗い物をする簡単なものです。
週に2,3日、夕方から入って大体夜11時位まで働き、自転車で急いで帰宅して、0時に閉まる銭湯に駆け込むという生活でした。
そこで実際に働いたのは数か月でしたが、親方には大変お世話になりました。
お客さんがいない時は、話し好きの親方から、いろいろなことを聞かせてもらいました。
時には職人さんならではの下ネタやダジャレも交えながら、
やんちゃな修業時代に遊んだ話、
独立開業してしばらくは、領収書を切って飲み食いするお客がたくさんいた景気が良かった頃の話、
その後バブル経済が崩壊してから景気が悪くなってからの苦労話など、
仕事の背景やお店の成り立ち、個人事業主としての気構えを教わりました。
自分が開業するつもりなど毛頭なかったわけですが、振り返ってみると、当時教わったことが染みついていることに気付かされます。
「お客が減ったからといって、素材を安くしては絶対にダメなんだ」というポリシーは、僕の大切な教訓です。
辞めた後も、家族ぐるみでお付き合いいただき、米の子まで食事に来てくださったこともあります。
親方は、ご自身のお店を閉めてからも寿司職人として働いておられましたが、三年前に急な訃報を受け、とてもショックでした。
実直な職人として生涯を貫いた、偉大な先輩だと思っています。
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親方の寿司屋と正反対、圧倒的に規模が大きかったのが、銀座にあった自然食ビュッフェのお店です。
そのお店は、プランタン銀座(現:マロニエゲート銀座)の裏手にあるファッションビルの4階にあり、席数が200席近い大箱でした。
ある大手食品メーカーが経営していて、無農薬の野菜や添加物不使用の料理を提供することで話題になり、当時は都内に数店舗を展開していました。
僕が働いていたのは、2008年の暮れから翌年の2月頃までです。
米の子の開店準備をしている時期で、少しでも飲食店での業務経験を積みたい、という思いでアルバイトを探していました。
そのお店以外は面接はおろか、電話での問い合わせ時点で、ことごとく応募を断られていました。
年齢が40歳、調理経験が浅く、自分の店を開店予定で短期でしか働けない、そんな条件では断られるのも当然です。
しかし、その自然食ビュッフェの料理長は理解のある人で、快く採用してくれました。
僕より何歳か若い男性で、実家が飲食店を経営しているとのこと。
米の子のコンセプトにも興味を持ってくれて、何かと気にかけてもらいました。
店の収容人数が広いだけあって、厨房も大きく、そこだけで小さな店が一軒できるほどだったと記憶しています。
提供する料理の種類もとても多く、調理関係のスタッフは10名近くいましたが、その中で僕は一番未熟でした。
はじめのうちは、玉ねぎや大根の皮を剥いたり、ごぼうを大量に洗うなど素材に触れる作業を与えられましたが、すぐに技術がなく手が遅いと評価されたようです。
ほどなくして、洗い場専門になりました。
主なシフトは夕方から閉店まで。
閉店の洗い物作業は、ラストオーダー後の大皿や容器が、ホールから大量に運ばれてきます。
残った料理をゴミ箱に捨て、大きなシンクに浸けて下洗いをし、工場のベルトコンベヤーのような食洗器に入れていきます。
ビュッフェ形式なので、お客さんがいる間は、料理の種類と量にそこそこボリューム感がなければなりません。
ですから、閉店時の料理の廃棄量は相当なものでした。
保温ジャーで温められたごはん、焼き物や炒め物、大きな寸胴鍋に入った何リットルもの味噌汁、日持ちしないデザート類‥。
最初の頃こそ、「食べられるものをこんなに捨てて、なんてもったいない」と思っていましたが、段々と麻痺していきます。
仕事に慣れるうちに、とにかく早く捨てて容器の汚れを洗い流して、とっとと家に帰りたいと思うようになりました。
料理長からは、「ビュッフェ形式というのは、ある客数を超えるとそこから利益率がグンと上がる仕組みだ」と教わりました。
一律の料理代金を取り、その人数が一定数を超えると、利益が飛躍的に上がるのだと。
だから、常に料理の種類と量を多くして、再来店してもらえるよう魅力的でなければならない、そういう業態なのだそうです。
これは、コンビニエンスストアの弁当やおにぎり、惣菜類の品揃えにも繋がります。
以前働いていたコンビニエンスストアの店長は、弁当の発注についてこう話していました。
「弁当を10売るためには、12仕入れなければならない。
10売ろうと思って10仕入れても、8しか売れない」
要するに、食べものを捨てることは織り込み済みということです。
ちなみに、残った料理を持って帰るスタッフを見た覚えはありません。
おそらく内規で禁止されていたものと思われますが、たとえ認められていても、持ち帰る人はいなかったと思います。
その店では、スタッフは300円くらいの安価で、ビュッフェ料理を賄いとして食べることが出来ました。
かなりお得なので、僕も賄いを数回利用したことがありましたが、他の正社員やアルバイトが食べているところを見たことがありません。
特に調理場のスタッフは、休憩時間になると、大抵外出してしまいます。
一日中、同じ職場にいると息抜きできないから、外に出たい気持ちは分かります。
何度か、ゴミ箱に捨てられたカップラーメンやコンビニ弁当の容器を見かけたことがあり、残念に思いました。
添加物不使用を謳う店であろうと、働いている人の志向はまた別、ということでしょうか。
自分が作る・提供する料理に、愛着や何らかの思いがあったら、毎日あんなに大量に捨てることは出来ないかもしれません。
こういったことが、日本中の飲食店の厨房で行われているだろう、というのが僕にとっての負の教訓です。
そのお店は、最盛期からは売上がどんどん下がっていたようで、米の子がオープンした2009年3月27日の二日後に閉店となりました。
他の店舗も他業者へ事業ごと売却されてしまいました。
あの時、一緒に働いていた先輩の料理人たちとは、その後連絡を取り合っていません。
いまもどこかの厨房にいるのかもしれません。
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