機械が分からない

昨今の情勢により、テレワークだのオンライン授業だのが推奨され、必然的に日常生活の中で電子機器を使う場面が増えた。
そもそもスマートフォンを利用している時点で、電子機器には毎日のように、いや、毎時間のように触れているわけではあるが。

さて、表題にもあるように、僕は機械が分からない。
分かろうとしていないだけだろ!と思われるかもしれない。
すまない、正解だ。
分からないことに胡座をかいて、分かろうともしていないのであるが、日常生活に必要な分を機能させることはできているので、そこで満足してしまっているのである。
それでいて分からないなどとほざいているので、全くタチが悪い。読んでいる方には不快に思う方もいるかもしれない、いや、ここまで読んでもくださらないだろうか。

話を戻そう。
例えば、新品のスマートフォンを買ったとしよう。
家に持ち帰り、早く使ってあんなアプリを入れてみたい、写真を撮ってみたいだなんて、はやる気持ちを抑えつつ電源を入れる。
初めはチュートリアルがあって、触ってみて、情報を打ち込んで。さてチュートリアル完了!実際に使ってみよう!となるわけであるが、この段階ではまだ、最低限の使い方を理解しただけである。

大体は使いながら慣れていくものだとは思うが、使いながらで今日まできているのである。
恐らく、僕が今使っている以上にたくさんの便利な機能が内蔵されており、アプリを取ればさらに便利に使えることであろう。

宝の持ち腐れ、なんて言葉があるが、少なからず使っているので、宝の使い腐れとでも言おうか。
この機器の本来持っている能力を最大限に引き出すことができていないのである。
きっと僕は人事に向いていないだろうな。
潜在能力とやらに気づかずに腐らせてしまいそうだ。
なんて不意に思ってみたりもするが、それはそれで、また別の話であろうか。

かなり冗長な文を生み出してしまったが、何を思って綴り始めたのかと言うと、もっと電子機器を使いこなしたいなという、ふんわりとした願望からである。
これには、生活に余裕を持って、時間的にも精神的にもゆったりと流れる時間の中で、よし今日はこれをやってみようと思えるような、そんな日常が必要なわけである。

勘のいい方は、ここでお気づきかもしれない。
僕は前2回で使ったあのタグに着地したいのである。
終わり方が決まっていると、どうにもそこに引っ張られてしまうのだが、今回は寧ろなんとかこじつけて、目的地ににじり寄っているのである。
必死さが露呈してしまったかな、失礼した。
今回は少し表記揺れでもしてみよう。
なに、気まぐれだ。

心にゆとりのある日常を目指して。


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