求っ不得っ苦
求っ不得っ苦
キャタピラコメダと申します。趣味とお仕事の狭間で毎日エッセイ日記を書いています。くだらない文を、くだらねぇと笑ってもらえれば
人の欲と飢えには際限がない
どうしてまた新しいイヤホンが欲しくなってしまうんだろうなぁ
求められているという、生きている実感が欲しくなるんだろうなぁ
求めるものが手に入らない、欲は満たされることはない
その苦しみを求不得苦という
四苦八苦の「八苦」の一つ 仏教用語らしい
人と比ベてしまう、努力が実らない、思ったようにいかない、好きな人のすきな人が自分ではない……
それを満たされない飢えだと嘆き苦しんで生きるのではなく、満たされないことを認めて「有難い」「十分だ」と自分の中で線を引ければいいのだろう。
弟が中学生になった。TikTokとかバリバリに始めるような奴にならなければいいなと思ってしまうのは私が若者じゃなくなってしまったからだろうか。文化として面白く、コミュニケーションと自己表現の場として多くの人に支持されていることは認めている。
しかし、便利なものほど使い方が難しく、誤れば致命的だ。
自分が学生の頃にTikTokがなくて本当に良かったと思う。こんなブログを書いているくらいだ、承認欲求が無いわけじゃない。
スシローの件のような歪で醜い問題を見るたび、自分が高校生の頃にそんなものがあったら何かやらかしたか可能性もあったのかと考えてしまう。自分がそんなに愚かだとは思いたくないが
それでもやっぱり自分が高校生の時にTikTokがクラスで流行っていようと音楽に合わせて踊る姿を投稿する事はなかっただろうなぁと思うんだ。そんな自己表現の方法はできない。こんなブログを書いているくらいだ、承認欲求が無いわけじゃない。自分のことを見てほしいと望むことは決して悪くない。決してその手段を間違ってはいけないだけだ。
思いっきり嫌われる事を言おう
承認欲求を過剰に満たそうとする人は「承認されるという最低限の自信」が地盤にあるのではないかと思う。私の自己評価が低く、性格が腐ってるだけだろうか?ある程度「かわいいと言ってもらえる自信」があるからニコニコして可愛らしく踊れるんだろう?ある程度「笑わせる自信」があるから音楽に合わせてギャグができるんだろう?
なんてウソウソ冗談だってゴメンゴメン完全にわたしが悪い、腐りすぎてる、時代に合ってない。自分だって誰かが見てくれると思って今キーボードを叩いているくせに。
それでもやっぱり自分が高校生の頃にクラスでTikTokが流行っていようと乗っかっていなかったと思うんだ。やっぱカメラ目線でニコニコ踊れねぇって。
ルックスが足りない
自信がない
勇気が出ない
無いもんは無い。しょうがない。
私にとっての自己表現は書くことなんだ。少なくとも今は
自分という人間がどういうやつだったか、いつか消えてしまう前にできる限り自分の頭の中を放出しておきたい。恥ずかしくなんてない。中途半端に羞恥心を抱えながらやっていてそれがバレるのが一番恥ずかしいことだと思う。そしてその方法を間違ってしまうことが一番怖いのでないだろうか。
何が言いたいかって。
スシローの件とかほんと怖いよね…
承認だろうが賞賛だろうが、求め始めたらキリがなくなってしまうことをしっかり教えてくれるSNSとか誰か作ってくれよ。
投稿する為のボタンが「保護色か?」ってくらい見づらい上になかなか見つからないページにあって、ネット回線の解約くらいめんどくさい手順が必要とか。
今後のサービスの為にあなたが小粋な音楽にのせてダンスする理由をお教えください (例)フォロワーに狙っている子がいるなど
って聞かれるとか。そのうち中途半端な覚悟で投稿する気になったくらいだったら目が覚めるだろ。これくらいの壁乗り越えてから自分を出してこい若人よ
そうだな、名前は求っ不得っ苦にしてくれ