刀伊の入寇

学校で習った記憶が私にはないのですが、ちゃんと授業を聞いていなかったせいかな?
神風が日本を助けたといわれている元寇、モンゴル来襲(文永の役)はよく覚えていますが、「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」は大人になって本で知りました。

「寛仁(かんにん)」とは後一条天皇の代の元号で、平安時代の1017年5月21日から1021年3月16日まで。
この刀伊の入寇、被害が大き倭国にとっては重大事件です。
元寇より255年ぐらいも前の事件。
「刀伊」とは、当時の朝鮮語、東の敵という意味の「東夷(トイ)」に日本語の漢字を当てたものとか、諸説あります。
公卿藤原実資(ふじわらのさねすけ)の日記の「小右記」と算道家の三善為康(みよしのためやす)の記した「朝鮮群載」が主な資料として残っています。どんな事件か、簡単にいうと、外満州に居住していた女真という民族が朝鮮半島づたいに船50隻3000人ほどで南下し、津島に上陸、殺人、放火、略奪をし、36人を殺害し346人を拉致したというのが発端の事件です。

10世紀前半、契丹(キッタン又はキッタイ、モンゴル高原東部で活動していたモンゴル系遊牧狩猟民族)の勢力拡大と渤海(ボッカイ、中国東北部に存在した国)が消滅したことで、満州の松花江一帯から外満州にかけて居住、活動していた女真という民族の活動の場が狭くなり、女真族は活動の場を他方面にもとめ高麗(朝鮮半島の国)への襲撃が多くなります。
※女真族とはツングース系民族で、後にこの民族の末裔が金や清を建国したとされ、現在も末裔は中国に生存しています。

1019年5月4日(寛仁3年3月27日)、刀伊軍(女真族主体)は50隻約3000人で朝鮮半島づたいに南下し、突然に対馬を襲います。そして島のいたるところで放火や殺人、略奪。この時の被害は36人が殺され、346人が拉致された。
この時、対馬にも警備隊はいたのですが多勢に無勢で敗れています。やっとこさ国司、対馬守遠晴は島から逃げ出し大宰府に事態を報告しております。
この賊軍は、続いて壱岐を襲撃し、村にいた老人子供を殺害し、若い男女を奴隷にするため捕らえ、すべての食糧を強奪し家畜等を食い荒らすという悪の限りをつくします。この時の国司は壱岐守藤原理忠で、知らせを受け直ちに147人の兵を率いて現場に向いますが人数の差が大きく全滅してしまいます。
刀伊軍は続いて壱岐嶋分寺に襲いかかります。これに対し僧侶や地元住民が応戦しましたが、何度もつづく攻撃に耐えられず全滅し寺は全焼しました。そして島民148名が殺され女性239人が捕まえられました。必死の思いで僧侶がひとり逃げ出し大宰府に知らせに向かっています。当時は情報が少ないため襲撃してきたのは朝鮮半島の高麗と考えたようです。

その後、刀伊の賊軍は筑前国怡土郡、志摩郡、早良郡を襲撃、さらに4月9日には博多を襲撃。
博多で警護にあたっていた太宰権師(大宰府長官の同役?)藤原隆家と大蔵種材たちによって撃退されます。
※藤原隆家(ふじわらのたかいえ)
武闘派の公卿です。「枕草子」「大鏡」「古今著聞集」など資料が多く残っているようで、けっこう有名だったみたいです。
※大蔵種材(おおくらのたねき)
太宰少監、こちらもかなりの武闘派のようで弓の名人。殺人の罪で投獄された経歴あり。刀伊の入寇の時はかなり高齢だったようですが、褒章すべきとして名を挙げられています。

その後、刀伊軍は朝鮮半島へ引き返し高麗を襲っていますが高麗の水軍によって撃退されます。高麗軍はこのとき、拉致された日本人300人ほどを保護し日本に送り返してくれました。

細かく書くときりがないですが、だいたいこのような悲惨な大事件です。
すごい時代があったんだなと恐怖するばかりです。









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