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神仏探偵・本田不二雄が案内する 「TOKYO地霊WALK」 vol.14
三宝寺池に“ヌシ”が実在した!?
豊島氏ゆかりの社寺をめぐる
練馬区・三宝寺池編【後編】
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神仏探偵・本田不二雄がナビゲートする都内イチオシの霊場、それが練馬区石神井の三宝寺池周辺です。
その後編は、石神井の穴場につづき、さらなる伝説の現場へ、そして、室町時代の名族・豊島氏が築いたゆかりの社寺へと足を延ばします。
年末・年越しのこの時期、外は冷え込んできましたが、新年、巳年の初詣にお勧めしたいとっておきのスポットをご案内しましょう。
池面にダイブする“蛇体”あらわる
さて、 練馬区・三宝寺池編【前編】から更新が遅くなって相すみません。その【後編】です。
前編では、石神井公園の西エリア・三宝寺池に浮かぶ厳島神社とその奥宮を詣でました。奥宮の通称は「穴弁天」。そこに、三宝寺池の“地霊”が密かに祀られていたのです。
その奥は現在見ることがかなわないので、一礼して池畔の遊歩道を東に進みます。
すると、厳島神社のもうひとつの奥宮・水神社があらわれます。
祭神は水の女神ミツハノメ(水波能売)。その祠は池を背にし、池の端ぎりぎりの場所に建てられています。つまり、三宝寺池に鎮まる女神を拝む仕様です。同じく水の女神を祀る厳島神社(もとは弁財天を祀る弁天堂)ともカブりますが、明治以前、仏式の女天(弁財天)だけではなく、神道の女神も祀らねば、ということだったのでしょうか。
それはともかく、目を見張るのは、祠の手前からぐいっと池へと伸びる一本のクロマツの大木です。さながら池へとダイブする大蛇のごとき様相。“池霊”である蛇体の女神が鎮まるという場所だけに、タダゴトではない雰囲気が漂っています。
ところで後日、練馬区の伝説を調べていると、こんな記事に出くわしました。
三宝寺池には主がいるという。その主は蛇体であると伝える。明治時代にも、釣(り)にいつて、松の木が池畔に横わると思つて、それに乗ると、動き出たしたので、青くなつて逃げ帰つたという人もある。
何と! 「池畔に横たわる松の木」といえば、この木にほかならないでしょう。もちろん伝説はそれとして、“この池には蛇体のヌシがいる”というイメージが近隣で共有されていた事実は見逃せません。
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三宝寺池のヌシをめぐる数々の証言
蛇体のヌシといえば、こんな話も伝わっています。
明治何年かのこと。稲付村(今の北区稲付町)の付近から、若い女の客を乗せた一台の人力車があった。いわれるままに、富士街道を一散に走つて、上石神井村まで来た。そして三宝寺池のほとりで「ここで結構」と客は車から降りた。そして、「家へ帰るまで包みを開いてはいけません」といいながら紙に包んだ銭らしいものを渡した。
……車夫がしばらくいくと、うしろで大きな水音がした。はっとして振向くと、さっき乗せて来たあの美女が、見るも恐しい大蛇になつて、今まさに池に沈んだところだった。
別の伝では、開けるなと言われた包みをつい開けてしまうと、中に「大きな鱗が三枚入っていた」とも伝わっています(同上掲)。
3枚のウロコといえば、北条氏の家紋“三つ鱗”の伝説を思い出します。江ノ島の岩屋にあらわれた美女(弁財天)が、北条時政(鎌倉幕府の初代執権)に神託を告げて大蛇(龍)に変じ、ウロコを3枚残していったという話です。
美女と弁財天、そして大蛇……。どうやら、水域を舞台とする神話パターンがここ三宝寺池で展開されているようです。
などと、やや分析的に述べていますが、驚くべきことに、実際にそれを目撃し、絵に描いた人もいました。山養なる号をもつその人は、こんなメモを残しています。
「明治8年秋9月、池に動声あり。そこで私は池辺にてうかがっていると、忽然として“一之大龍”が現れた。よってその形をしるして、後来(世)に伝えよう(と描いた)」
この絵を所蔵している三宝寺によれば、「古来三宝寺池には主がいると信じられ、これを見たという人は他に幾人もいる。なお、この図を掛けて祈れば、旱魃のとき降雨の験があるという」(『三寶寺誌』)とのこと。つまり、この図像は古来より信仰されてきた三宝寺池の龍神像そのものとして拝まれたわけですね。
それにしてもこの“大龍”、龍というよりは、まるでウナギに耳がついたような穏やかな面相が印象的です。それも、美女が変じた蛇体ゆえのことだったのでしょうか。
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伝説や怪談の根底に潜む池霊の記憶
さて、池畔をさらに進むと、歩道の行き止まりに「石神井城址」の石碑があります。そう、石碑の背後にあたる台地には、かつて豊島氏が築いた城があったわけですね。
ここで池を背にして石段を登ってみましょう。
残念ながら城址内はフェンスに遮られて入れませんが、堤防状の土塁や濠(空堀)の跡らしきものは見えます。その先の高台に城郭跡があったようですが、現状、案内板の図で確認するほかありません。
ところで、【前編】で、石神井城の最後、城主・豊島泰経が家宝「金の乗鞍」にまたがり、白馬とともに三宝寺池に身を沈めたという逸話を紹介しました。あくまで伝説ですが、「金の乗鞍」に関しては、その後もしばしば人々の口の端に上っていたようです。
というのも、明治41年(1908)、地元から都知事に許可を願い出て、三宝寺池に沈んでいるとされる「金の乗鞍」を発見しようと本気で池の探索が行われたというのです――。
実は明治末のこの時期、豊島泰経と照姫(照日姫)を題材とした小説『照日の松』が出版され、三宝寺池の伝説がふたたび脚光を浴びていました。そこで「金の乗鞍」が再浮上したようですが、その一方、以後しばしば三宝寺池の幽霊話が流布しています。そのほとんどが照姫らしき女性がモチーフになっており、昭和の戦後にも引き継がれていきました。
ある意味、美女と大蛇の伝説から照姫の幽霊へと、三宝寺池のミステリー譚は転換期を迎えた感もあります。ただし、その根底には“水とヘビ”、そして“水の女”という古くて深い地霊(池霊)の記憶があった。そう本田は考えています。
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「祓い石」で年末年始の厄祓いを!
石神井城址を背に振り返ると、石神井氷川神社の脇門へと誘われます。
氷川神社は、石神井城の守護神として、後述する三宝寺や弁天堂(厳島神社)とともに室町時代、応永年間(1394~1428)に造営したといわれています。つまり、当エリアの神仏世界は、中世・豊島氏の遺産を今も受け継ぎ、伝えられてきたのですね。
その境内は、かつての石神井城の一郭(関連施設)だった場所にあり、豊島氏滅亡ののちは石神井郷の総鎮守として崇敬を集めていました。拝殿の手前に一対のマツ(御神木)がそそり立っているのは、三宝寺池畔の当社ならではでしょう。
面白いポイントを発見しました。ひとつは、拝殿前向かって右にある一から百までの数が記された札。ほかでは見たことはありませんが、これは“お百度参り”をカウントするアイテムでしょう。当社が人々の篤い祈願の場だったことを偲ばせます。
もうひとつは、近年設置されたらしい「玉祓い」。こんなマニュアルが書かれています。
①授与所で中空の円い玉(祓玉)を受ける(初穂料500円)。
②社殿右脇の「祓い石」の場所へ向かう。
③祓玉を両手に持ち、厄祓いの祈念をこめ、石に空いた穴に息を吹きかけて身に生じた災厄(穢れ)を祓玉に移す。
④その玉を祓い石に投げて割り、厄を祓う。
ふむふむと興味深くその案内チラシを見ていると、たまたま横にいた女性が「これ、気持ちよかったですよ!」と笑顔で教えてくれました。
いろんな神社で特有の祈願作法と出会うことがありますが、これは初見です。ネガティブな感情を内に溜めている人は、家で皿やコップを割ったりせず、「玉祓い」でスッキリするのもありかもしれません。
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最後に待っていたサプライズな拝観体験
氷川神社の境内を出ると、南に風情のある参道がつづきます。では、最初の交差点を左折して三宝寺に向かいましょう。
いやはや、ここにこんな大寺があったとは――と驚く伽藍群です。
山門を入ってすぐの大黒堂は、ダイコクさんにご利益・霊験を祈る拝みの場で、近くにはアカマツの大木が天を衝いて伸びています。やはりマツの木がシンボルなんですね。
その先に、護摩祈祷の本尊・不動明王を祀る本堂。雄渾な筆致の「密乗三寶」の扁額は、ここが真言密教の寺院である証です。
さらに左奥に進むと、高さ17メートルの多宝塔、背後には高さ9メートルの十一面観音立像(平和大観音)が存在感を放ってやみません。ともに1996年、創建600年を記念して発願されたもの。大晦日と初詣時期にはライトアップされるとのことで、要チェックです。
最奥の大師堂(奥の院)は密教の開祖・弘法大師空海を祀るお堂ですが、その手前に石碑群が並ぶ曲がりくねった細い参道があります。これは「四国八十八ヶ所お砂踏霊場」といい、空海が修行した88霊場の「お砂」をいただいて各寺院の標石の下に埋めてあるとのこと。
つまり、ここを参拝すれば四国霊場を巡礼したのと同じ功徳があるというわけですね。
そして最後に、サプライズが待ち受けていました。
境内入ってすぐの大黒堂の地下に地蔵堂があり、自由に参拝可(各自室内灯を点灯、消灯のこと)とのことで、入らせていただきました。
すると、地蔵菩薩の祭壇奥の壁いっぱいに、巨大な仏画が掲げられていたのです。
「六道曼荼羅」(天国地獄絵図)。仏画の巨匠、染川英輔画伯の大作です。
まさに天国と地獄のパノラマ絵巻。よくよく拝見すると、原爆投下や9.11のツインタワー崩落など、現代の地獄も描きこまれ、ブッダのみならず、イエス・キリストや孔子などの東西の聖賢も描かれています。現代を生きるわれわれにも実感できるこの世とあの世の諸相が、一幅のうちに展開されているのですね。いやはやすごい。
うっかり見過ごしそうですが、反対側のガラスケースに納められた板碑群にも目を見張らされます。
これらは現代の卒塔婆に通じる供養塔の一種ですが、とくに「武蔵型板碑」といい、秩父産の緑色片岩を加工して造られたものです。東京の寺院や郷土博物館などでよく見られる中世後期の遺品なのですが、一か寺にこれだけの数が残っている例は筆者はほかに知りません。これも地味にすごい。
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……そんなこんなで充実しまくりの練馬・三宝寺池周辺の散歩コースでしたが、まだ体力が余っている人は、「石神井公園ふるさと文化館」で練馬の歴史を振り返るもよし、「豊島屋」(【前編】参照)でビールとおでんに雪崩れ込むもよし。
そして何より、巳年の初詣コースとして力強く推奨したいと神仏探偵は思うのです。
皆さま、よい年越しを!
文・写真:本田不二雄
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【著者プロフィール】
本田不二雄(ほんだ・ふじお)
「神仏探偵」として、全国の神仏方面の「ただならぬモノ」を探索することを歓びとするノンフィクションライター。駒草出版の三部作として好評を博した『ミステリーな仏像』、『神木探偵』、『異界神社』(刊行順)のほか、そこから派生した最近刊『怪仏異神ミステリー』(王様文庫/三笠書房)、『地球の歩き方Books 日本の凄い神木』(Gakken)などの単著がある。
Xアカウント @shonen17
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