神仏探偵・本田不二雄が案内する 「TOKYO地霊WALK」 vol.12
雑司ヶ谷鬼子母神堂の秘密と
謎めく禁足地の迷宮
【護国寺~雑司ヶ谷編・後編】
「雑司ヶ谷マンダラ」(仮称)の“神セブン”へ
さて、前編に引き続き、清土鬼子母神堂から弦巻通りに戻り西へ、つまり、旧弦巻川をさかのぼる形で、雑司ヶ谷の鬼子母神堂へと向かいます。
この通りは昭和の初期に暗渠化(現在は地下に下水道が流れている)された道なのですが、かつての谷川を思わせるゆるやかな曲線をなし、昭和の時代、たくさんの人々が往来した懐かしい風情をそこかしこに感じます。
手焼き煎餅の製造直売所あり、手作り総菜で人気の肉屋あり、老舗のパン屋あり。年代を経た建物もポツポツ残り、散歩の興趣にはこと欠きません。
もうひとつ注目したいのが、弦巻通り(旧弦巻川)沿いに点在する寺社が、日蓮宗の寺院群からなる「雑司ヶ谷マンダラ」(仮称)を形成していることです。そのとっかかりとなるのが、「雑司ヶ谷七福神」。実は、護国寺から雑司ヶ谷エリアを巡り、池袋駅を終点とする今回のルートを歩くと、七福神巡りをコンプリートできてしまうのです。
なお、雑司ヶ谷の「神セブン」は以下のとおり。
①吉祥天(清土鬼子母神堂)文京区目白台2-14-9/延命長寿・諸病平癒・身体健全
②毘沙門天(清立院)豊島区南池袋4-25-6/金運・開運・健康長寿・厄除け
③恵比寿(大鳥神社)豊島区雑司が谷3-20-14/商売繁盛・五穀豊穣
④大黒天(雑司ヶ谷鬼子母神堂)豊島区雑司ヶ谷3-15-20/商売繁盛・金運・縁結び
⑤弁財天(観静院)豊島区南池袋3-5-7 *法明寺境内/技芸上達・財運開運・恋愛成就
⑥布袋尊(中野ビル)豊島区南池袋2-12-2 /無病息災・商売繁盛
⑦福禄寿(仙行寺)豊島区南池袋2-20-4/子孫繁栄・延命長寿・富貴栄達
現在の住所表記では南池袋や目白台となっているところも、広義の雑司ヶ谷エリアといって差し支えないでしょう。それぞれ七福神のスタンプが用意されていますから、ぜひ御朱印帳かメモ帳のご準備を。
七福神巡りは、『仁王経』という経典に書かれた「七難即滅・七福即生」のパワーワードを典拠に、江戸庶民の信仰習俗として広まりました。雑司ヶ谷のそれは2011年に町おこしで始まったものですが、これらの寺社には雑司ヶ谷の歴史が秘められています。
七福神めぐりで雑司ヶ谷の秘史と出会う
では、上の②と③に立ち寄ってみましょう。
清立院は、旧弦巻川を見下ろす高台にあります。参道石段の手前には「かさもり 薬王菩薩安置」の石碑。そして石段には毘沙門天の提灯が連なっています。
「かさもり」とは、かつて猛威を振るった天然痘(疱瘡)および皮膚病から人々を守るの意で、「薬王菩薩」は病者に薬を与える功徳で知られた仏尊。鎌倉時代に創建されたという当院は、古来、雨乞いと皮膚病除けのご利益で知られているそうです。
現在は“毘沙門天推し”のお寺ですが、毘沙門天といえば財宝と開運勝利をもたらすという仏神。その霊験あらたかなお像は豊島区の指定文化財です。
弦巻通りから都営荒川線を渡った先に、大鳥神社があります。
由緒によると、もとは鷺大明神社といい、鬼子母神堂(後述)の境内に祀られていたお社で、江戸時代半ば、出雲国(島根県)松江藩主の松平宣維が「神告によつてこれを勧請」(『江戸名所図会』)したとあります。どういうことでしょう。
鷺大明神は疱瘡の守護神で、松平公の嫡男が天然痘に罹ったさい、この神に祈って病が平癒したことから、江戸の屋敷からも近いこの場所に出雲国から鷺明神の分霊を迎えた。ところが明治になり、神仏分離の政策によって鷺大明神は鬼子母神堂の境内から出され、大鳥神社と改称して現在地に境内地を得た――とのことです。
ところでこちらの恵比寿神、かつて鷺大明神に祀られていたものの、長く行方不明のままだったそうです。そこで、雑司ヶ谷七福神を創設するタイミングで恵比寿神の総本社・西宮神社からあらためて分霊し、復活を果たしました。
江戸時代からまったく変わらぬ境内
大鳥神社の本殿に向かって左側の道に出て、そのまま進むと、いよいよ鬼子母神堂の境内へと迎えられます。
鬼子母神出現の経緯は前編を参照いただくとして、不思議な霊験をあらわすそのお像は、昔から稲荷の社があったという森(現在地)に草堂を造営し、安置されました。天正6年(1578)のことです。
何度来てもここは格別です。お江戸を代表する名刹のひとつですが、今回最初に詣でた護国寺とは対極をなす風情。権威張ったところがなく、敷居の低さと懐かしさを感じさせる境内です。なにしろ、境内に駄菓子屋(上川口屋)があり、七福神の大黒天(④)を祀る大黒堂は、名物「おせんだんご」の売店を兼ねていたりします。
ちなみに、『図会』の境内図を見ると、現在の駄菓子屋の場所に「あめや」とあります。上記の「川口屋の飴」がそれです。つまり駄菓子屋は江戸時代からつづく老舗(!)。「おせんだんご」も、鬼子母神に1000人の子どもがいたという伝説にちなみ、たくさんの子宝に恵まれるようにとの願いが込められた、江戸時代の復刻スイーツです。
さらに境内図をよく見ると、入口の「石二王」(石造仁王像)、草創の場として語られる「いなり」(武芳稲荷)や垣根に囲まれた御神木のイチョウも見え、江戸時代から今も変わらぬ景観だったことがわかります。なお、現在の大黒堂の場所には、先の「鷺明神」が描かれていました。
鬼子母神堂に秘められたコンセプトが判明!?
さて、鬼子母神堂です。
今回再訪したのは奇しくも10月18日。「御会式」(宗祖・日蓮上人の忌日法会)の最終日でした。クライマックスの「万灯練り供養」までは間がある午後でしたが、縁日ならではの読経がカンカンとリズミカルな木鉦の音とともに響き渡り、身体の芯を震わせます。
角(「ノ」)のない鬼の文字を用いた「鬼子母神」の扁額を掲げる本堂は、寛文4年(1664)、広島藩主浅野光晟の正室・自昌院の寄進によるもので、国指定重要文化財。この女神を祀る仏堂では類を見ないスケールです。
鬼子母神(梵名・ハーリティ)とは何者でしょう。
仏典によれば、インド・王舎城に住まう夜叉神(毘沙門天の原像)の娘で、たくさんの子をもうける一方、よその子を捕らえて食べる恐るべき鬼女でした。それを見かねた釈迦が、彼女のもっとも愛していた末子を隠し、半狂乱となったハーリティに説教して我欲と執着の誤りを悟らせたといいます。
以後、ハーリティは仏法の守護神となり、子供と安産の守り神となることを誓いました。このため、鬼女のツノはなくなり、鬼子母神堂の拝殿奥の神殿に奉安されたその像も、子を抱いた美しいお姿だといいます。
一方で日蓮宗では、根本経典の『法華経』に法華信者を擁護し、教えを妨げる者を罰すると書かれていることから、恐ろしげな鬼子母神像が修行者の守護神として崇められています。境内の鬼子母神石像は、そっち寄りの像です。
鬼女にして豊饒・多産の女神。これは日本的な女神観と重なるもので、この地の地中から出現した鬼子母神は、それゆえ近しい女神として人々の信仰を集めたのでしょう。
ところで今回、同行したM師(祈祷僧)から、鬼子母神堂の裏に、妙見菩薩が反対向きに祀られていると聞き、裏側に回ってみました。
確かに、小さな妙見堂が背中合わせで鎮座していました。妙見菩薩は、北極星の神格化で、人の命運をつかさどる星辰の王といわれています。
なぜそうなのか。その意味を思案するうち、鬼子母神出現の逸話を思い出しました。
「(清土鬼子母神堂の)清泉を星の清水と号く。この井に星の影を顕現せしことありしゆゑ」(『江戸名所図会』)
つまり鬼子母神は、星の影とともに地中からあらわれた。つまり、天の星神と大地の女神は表裏一体。豊饒と多産をもたらす鬼子母神を、人の命運をつかさどる妙見菩薩が裏で支える――それが鬼子母神堂のコンセプトだったのか! そう思い至ったのです。
「雑司ヶ谷マンダラ」(仮称)の原点となる禁足地
鬼子母神堂を出て北に進むと、ふたたび弦巻通りにぶつかり、その先に威光山法明寺があります。この寺は鬼子母神堂の本寺で、この地域の日蓮宗寺院の中枢です。途中、⑤の弁財天を祀る支院の観静院に立ち寄りながら参道を進みましょう。
深い歴史を偲ばせる法明寺の本堂に拝礼し、参道西側の「池袋への近道」を進むと、ほどなく右に赤い鳥居が連なる参道があらわれます。突き当りの民家っぽい建物にややたじろぎますが、中に進み入ると参道は2度直角に曲がり、突き当りに石段が……。その先の小高い場所に鎮座しているのが威光稲荷社でした。
外から隠されるようにして祀られた謎めくお社……。
まずは失礼のないように拝礼し、ふと傍らを見ると、窪地の奥に、こんもりとした一画が見えます。近づいて見ると、フェンスで覆われた塚らしきものがあり、その塚を拝むようにふたつの社祠が祀られていました。
そこは、侵してはならない禁足地で、威光稲荷の奥宮だったのでしょうか。その魔所のごとき佇まいにゾクゾクとする感覚に襲われます。
その由緒を知らせる石碑にはこう書かれていました。
慈覚大師とは、平安初期の高僧・円仁のこと。円仁は一条の光に導かれて稲荷神と出会い、その威光を放つ尊神のお堂を建立したとあります。
その後、そこは威光寺という名の真言宗のお寺となったようですが、正和元年(1312年)、日蓮聖人の弟子・日源上人が日蓮宗に改宗、威光山法明寺と寺号を改めたそうです(『高田町史』)。
確かに、その塚は法明寺の真裏にあります(現在は寺から直接のアクセスは不可)。
もとは光を放つ土地神(地主神)の御座所だった。そこに稲荷尊神の名が当てられ、のち寺域の守護神となった――そんな経緯がここから読み取れますが、それは鬼子母神が星の導きで出現し、「いなり」の森に祀られた経緯とも似通っています。偶然でしょうか?
ともあれ、謎めく「お塚」が現代に遺されました。その形状は古墳を思わせるものですが、詳細は不明です。なお、法明寺と鬼子母神堂の周辺では縄文時代からの遺品が出土しており(雑司ヶ谷遺跡、南池袋遺跡)、ここが先史の時代にさかのぼる歴史を有していたことにも注意しておきたいと思います。
ラストで「池袋大仏」に癒される
では、残りの⑥、⑦の場所へと向かいましょう。
⑥の布袋尊は繁華街のビルのすき間におわしました。唯一寺社ではなく、個人の所有地(中野ビル)で、中野家は瀬戸内の石材供給地・小豆島の出身、その7代目は布袋尊を護持し、皇居の二重橋や国会議事堂などの石造建築を手がけたそうです(青立院HPより)。
その大らかで福々しい尊像は、かつて石材店の店頭に置かれ、池袋復興のシンボルとして人々に親しまれていました。そして平成22年(2010)、地域文化の活性化を目的とした雑司ヶ谷七福神の趣意に賛同し、中野家は新たにお社の造営を行ったそうです。
そしてラスト、⑦の福禄寿を祀る仙行寺。
こちらは、七福神というより、2018年平成最後の年に出現した「池袋大仏」(本堂ビル1~2階にあたる吹き抜けスペースにご鎮座)で知られています。
大佛師・渡邊勢山作で、高さは約4.6メートル、重さは約1.5トン。台座部分が背面の壁に固定されているため、1メートルほどの高さで空中に浮遊して見えるのが特徴で、そのモチーフは『法華経』にある釈尊の説法の場面(虚空会)によるそうです。
ともあれ百聞は一見に如かず。もっとも新しい“東京名仏”にぜひご注目を。
ちなみに、こちらの福禄寿は、とくに「華福禄寿」と呼ばれ、一般に知られる老人相ではなく、童女が合掌するような愛らしいお姿。福・禄・寿の徳目を「法華経を通して具現化されたお姿」(仙行寺パンフレットより)とのことです。
仙行寺からは、徒歩約4分で池袋駅です。ふと「池袋」の由来が気になって調べると、池袋駅西口にかつてあった「丸池(別名「袋池」)」に行き当たりました。丸池といえば、実は旧弦巻川の水源にほかなりません。
何とわれわれは、雑司ヶ谷の「谷」を形成し、その流域に「雑司ヶ谷マンダラ」(仮称)の文化を育んだ弦巻川(弦巻通り)の水源を目指していたのです(結果的にですが)。
《次回につづく》
文・写真:本田不二雄
※当サイトの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用を固くお断りします。
【著者プロフィール】
本田不二雄(ほんだ・ふじお)
「神仏探偵」として、全国の神仏方面の「ただならぬモノ」を探索することを歓びとするノンフィクションライター。駒草出版の三部作として好評を博した『ミステリーな仏像』、『神木探偵』、『異界神社』(刊行順)のほか、そこから派生した最近刊『怪仏異神ミステリー』(王様文庫/三笠書房)、『地球の歩き方Books 日本の凄い神木』(Gakken)などの単著がある。
Xアカウント @shonen17