神仏探偵・本田不二雄が案内する 「TOKYO地霊WALK」 vol.6
上野の謎めく神仏と出会い
大寺院・寛永寺の記憶を歩く
【後編】
これ以上落ちようがない大仏さま
(前編からつづく)
花園稲荷をあとに、大通り(旧寛永寺の参道)を北に進むと、左に上野大佛の看板あり。「大仏山」と呼ばれる小高い丘につづく石段を登ると、なぜかインド風の仏塔が建っています。そしてふいに左に目を移すと、インパクト絶大な御尊顔が――。
何と、顔だけの大仏さま(青銅製、像高150センチ)です。
もとは首から下のある立派な坐像でした。ところが、地震によって倒壊、破損、頭部落下などをくり返したほか、火災で頭部が溶け落ちたこともありました。そのつど、再建されましたが、ついに昭和15年(1940)、顔面部をのぞく頭部、胴部以下が軍需資源として供出され、失われてしまいます。
そして戦後。ふたたび再建を望む声が高まりますが、昭和47年(1972)、寛永寺に保管されていた顔面部のみを旧跡(大仏山)に戻し、現在の形に落ち着きました。
ところが、このコンクリートの壁に埋め込まれた「顔だけ大仏」、2000年ごろから「これ以上落ちようがない」シンボルとして、受験生らの祈願を集めるようになります。別名「合格大仏」。何とも奇特な有為転変を経て、今は上野の新名物として穏やかな余生を過ごしておられるのです。
ところで、かたわらの仏塔(上野パゴダ)にも注目してみましょう。中におられるのは、薬師如来と日光・月光菩薩の薬師三尊。これらはかつて、上野東照宮境内にあったお堂(本地堂)の本尊でした。ところが、明治初年の神仏分離によって建物が壊されたのち、昭和42年(1967年)に新たな場所と住まいを得たのですね。
実はこのお薬師さん、かの東照大権現・家康公の本地仏として造立されたものです。
「権現」とはこの世に現れた仮(権)の姿の意味で、本来(本地)は仏だったというのが、明治以前の神仏セオリー。つまり、神として祀られる家康公の本体はこれ(薬師如来)だったというわけです。
そんな由緒をもつ仏像がひっそり祀られている上野の山。まったく油断なりませんね。
燦然たる金色殿と謎めくタヌキ神
さて、いよいよ近年修理が完了し、創建当初の姿がよみがえった上野東照宮へ。
まずは、参道の両脇に建ち並ぶ巨大な石灯籠が目を引きます。さらに進むと、社前には豪壮な銅灯籠がズラリ。これらは全国の大名らが競うように奉納したもので、さすがは全国の大名らを統べ、神になった家康公を祀るお宮だと思い知らされます。
そして出迎えるのは、絢爛たる唐門。左甚五郎作という昇り龍、降り龍も注目です。そして、極彩色の彫り物が巡らされた透塀の奥には、金色殿とも呼ばれる社殿がまばゆく陽光を照り返しています。拝観料500円でその透塀内を拝観できますので、ぜひこの奥に参りましょう。
するといきなり、拝観エリアの名物・御神木の大クスがどんとあらわれます。しばし喧騒を離れ、上野の山のヌシとゆっくり対面するのもありでしょう。
では、いざ透塀の内部へ……と、言いたいところですが、入り口脇の小さなお社が気になります。栄誉権現社といい、案内板にはこう書かれています。
「四国八百八狸の総帥。奉献された大奥で暴れ追放後、大名、旗本諸家を潰し、大正年間本宮に奉献された悪業狸……」
御神体は何とタヌキの木像(!)。ガラス越しによくよく拝見すると、そっくり返って上を向いた何ともユニークなお姿です。
何でもこのお方、タヌキ伝説の本場・四国からやってきてさんざん災いを起こしたすえ、上野東照宮の本殿脇に鎮座されたそうです。
なぜそんな狸がここに祀られたのか、誰が奉納したのか。「栄誉」の名の由来とは……俗説では家康公のあだ名が「狸親父」だったからとも言われますが、よくわかっていません。上野東照宮によれば、「当宮に奉納されてからは強運の神様になった」といい、「狸=他を抜くという縁起から合格、就職、当選などに御利益がある」とのことです。
ではでは、透塀の内へ参りましょう。
社伝によれば、元和2年(1616)、重篤に陥った家康公は、側近の藤堂高虎に「自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしい」と遺言し、上野にあった高虎邸の敷地に創建されました。現在の社殿は、家康の孫・三代将軍家光によって改装されたもので、明治維新の上野戦争や関東大震災、先の大戦の戦火にも焼失を免れたものです。
このため、とくに上野東照宮は強運の神様と言われ、家康公にちなんで出世、勝利、健康長寿の神様として信仰されています。社殿の中は非公開ですが、この奇跡のお社そのものが御神徳の証なんですね。
ぜひ一度、皆さんその目でご拝観・ご参拝を。
静かな祈りの空間にたたずむ大黒天の謎
さて、ここからは筆者言うところの裏上野・奥上野ゾーン。残暑の時期は無理をせず、2度に分けて詣でるのが賢明です(こまめな水分補給も忘れずに)。
東照宮から北へ徒歩13分。都立上野高校の裏にある護国院は、寛永2年(1625年)の創建。上野の山が開かれて最初に建てられた寛永寺の子院で、その5年後に建立された釈迦堂の別当寺(管理寺院)だったそうです。
そして、住職の生順(天海僧正の弟子)が三代将軍家光公から秘蔵の大黒天画像を贈られて以後、鎮護国家と開運を祈る護国院大黒堂として信仰されています。
では、お堂に上がらせていただきましょう。素晴らしいことに、当院は誰でもお堂の内陣に入ってお参りできるお寺です。現在のお堂は、山内を移転したのち本堂(釈迦堂)が火災に遭い、享保7年(1722)に再建されたもの。300年の歴史が染みついた堂内は格別の趣です。
正面には、寛永寺創建当初の造立という釈迦三尊像(釈迦堂の本尊)、向かって左には、護国院の本尊・千手観音ほか諸仏、右には谷中七福神の大黒天として知られる大黒天像や八臂弁才天像などが祀られています。
まさに壮観。これだけの仏像が一度に拝める場は東京では珍しいでしょう。静かで厳かな空気に包まれるなか、参拝者がぽつぽつとやって来ては巡拝し、祈りを捧げていきます。
筆者が気になるのは、向かって右の大黒天像(正徳4年[1714]造立)です。
本像は、家光公ゆかりの秘仏画像の前立ちの役目も担っていますが、通常、大黒さんといえば福々しい翁顔なのに対して、この像は少年のような若々しいお姿です。なぜでしょう? ちなみに、東京都教育委員会の文化財調査報告によれば、何とその内部には、大黒天の古像がマトリョーシカ人形のように納入されていました(!)。
何ともミステリアスな大黒天像。何らかの特別な祈願が本像にこめられてたのはまちがいないようです。
“奥上野”の寛永寺と無数にひしめく石像群
明治以前、江戸を代表する大寺院・東叡山寛永寺の主要伽藍は、現在の上野公園の大噴水のあたりにありました。今は往時を偲ぶものはほとんど残っていませんが、実は寛永寺がなくなってしまったわけではありません。
ホンダ言うところの奥上野、現在の東京藝術大学の裏手あたりにその境内があります。かつてのスケールとは比べるべくもありませんが、川越の喜多院のお堂を移築した本堂(根本中堂)には、往時と同じく秘仏の薬師三尊像が祀られています。
そして寛永寺は、来年の令和7年に創建400周年迎えます。
現在(令和6年中)、根本中堂はそれに向けて改修中で、内部の拝観も中止されていますが、年が明けたら、新たに描かれた巨大な天井画「叡嶽双龍」のお披露目とともに、リニューアルした根本中堂を拝観できる機会もあると思われます。
そういうわけで、来年以降の特別公開の発表を待つこととしましょう。
さて最後に、寛永寺にほど近いもうひとつの上野名所をご案内します。
寛永寺の子院(寛永寺三十六坊)のひとつ浄名院です。
こちらは喘息治癒の功徳があるという「へちま供養」(毎年中秋の日、今年は9月17日に開催)でも知られていますが、何より目を引くのは、境内にびっしりと建ち並んだ無数の石地蔵群です。
これらは明治12年(1879)、当時の妙運住職が、インドの阿育王が、釈迦入滅の100年後に8万4000の石宝塔を建立した故事にならい、仏恩に報い、民衆を救うために8万4000体の石地蔵尊建立を発願したのが発端。そしてみずから地蔵尊の御影を8万4000体写し、これを8万4000人に授与して、これを受けた者はかならず一体建立されるべしと誓願したといいます。
これに呼応し、かつて皇族や華族、政財界の重鎮・名士らのほか、梨園の花形にいたる多数の奉納者が名乗りを上げ、地蔵尊の造像にかかわったのでした。
今はその存在は忘れられ、石像群は風化が進みつつありますが、今なお、“祈りの数”が放つ独特の空気感に圧倒されます。上野散歩の最後に、こんな密かな聖地を詣でるのはいかがでしょうか。
【VOL.7へつづく】(9月6日公開予定!)
文・写真:本田不二雄
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【著者プロフィール】
本田不二雄(ほんだ・ふじお)
「神仏探偵」として、全国の神仏方面の「ただならぬモノ」を探索することを歓びとするノンフィクションライター。駒草出版の三部作として好評を博した『ミステリーな仏像』、『神木探偵』、『異界神社』(刊行順)のほか、そこから派生した最近刊『怪仏異神ミステリー』(王様文庫/三笠書房)、『地球の歩き方Books 日本の凄い神木』(Gakken)などの単著がある。Xアカウント @shonen17
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