車いすテニス最強王者・国枝慎吾 障害ある子供の希望に
このマガジンでは、小松成美が様々な人に取材した、北國新聞の連載「情熱取材ノート」の過去のアーカイブを掲載いたします。
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第15回夏季大会となるリオ2016パラリンピック競技大会。その中で最も金メダルに近い選手が、車いすテニス男子シングルスで3連覇を狙う国枝慎吾だ。
●パラ3連覇に闘志
4月に右肘の手術を行い、パラリンピックに備えた国枝は「リオでも金メダルを獲得する」と公言し、3度目の頂点制覇に臆することがない。車いすテニスの世界王者は、ATP世界ランキングを競い合う錦織圭やロジャー・フェデラーからも尊敬を集め、障害者スポーツという枠を超え、その強さを示している。
インタビューを受ける彼はいつも笑顔だった。
「車いすに乗る前は、プロ野球選手になりたいと思っていました」
野球が大好きだった少年の人生を大きく旋回させたのは、脊髄腫瘍という病だった。
「小学4年生になる前の春休みのこと。腰痛が酷(ひど)くて検査をすると脊髄に腫瘍が見つかりました。翌日、緊急入院する時には、もう足が動かなくなっていたんです」
腫瘍摘出の手術を受けた国枝は、その後、すぐに車いすでの生活を開始する。
「幼かったせいもありますが、絶望を感じたり、自暴自棄になったりすることはありませんでした」
学校へは車いすで通った。
友人たちとは、家の庭に取り付けられたバスケットゴールの下で何時間も遊んだ。時にはぶつかり、地面に体が投げ出されることもあった。
「両親も友達も、車いすに乗る前とまったく変わらず僕に接してくれましたから、僕自身、深刻になることがなかったのです」
手術から2年後、母の勧めで車いすテニスのスクールに通う。
「最初は、ラケットにボールを当てることも、バウンドに合わせて車いすを操ることもできませんでした。けれど、そこには『少しずつでも上達する』という喜びがありました」
足の自由を失うという逆境にあった彼は、新たなスポーツと出会い、生きることの喜びへと変えていったのだ。
「高校に入ると国内の試合では勝てるようになりました。けれど、海外の大会に出る度に世界のレベルの差に衝撃を受けていた。世界で勝てる選手になりたい、ならなければ、とトレーニングに明け暮れましたね」
大学生となって出場した04年アテネパラリンピック、斎田悟司とペアを組みダブルス金メダルを獲得。ところが、その栄誉を手にした国枝は第一線から退く決断を下す。
「莫大(ばくだい)な海外遠征の費用も全て親がかり。これ以上家計に負担は掛けられない、と思ったんです」
しかし、一度決めた引退はすぐに撤回されることになった。
「アテネの金で車いすテニスに注目が集まりました。僕がもっと活躍し、さらにメダルを増やしていけば、この競技を広く知ってもらえることになると再び闘志に火が付きました」
大学職員となった彼は職場のバックアップを得て競技を続け、4年後の北京でも金を手に。
「その時、プロになろうと決断しました」
●日本初のプロ選手
IMGという世界的なスポーツマネジメント会社に自ら書類を送り、契約を望んだ。
「社長面接を受け、自分が車いすテニスで活躍することで健常者と障害者の垣根を取り払いたい、と伝えました」
マネジメント契約を結んだ国枝は、09年5月、日本初の車いすテニスプロ選手となり、同年8月にはユニクロと所属契約を結ぶ。五輪だけでなくグランドスラム(世界四大大会)でも勝利を重ねて行くのである。
最強となった国枝は、リオのみならず20年東京への出場と金メダル獲得を宣言している。
「障害があってもプロアスリートになり生活が出来る。僕の行動や戦績が障害のある子供たちに希望をもたらすのなら、こんなに嬉(うれ)しいことはありません」
(※このテキストは、北國新聞の「情熱取材ノート」において過去に連載したものです※本コンテンツの無断転載を禁じます。著作権は小松成美に帰属します)