酒飲みを類推する 2
[酒飲みを類推する]からの続き
「楽しい」と「笑う」は、考えてみれば、全く別の事象だ。楽しい、は気分だから、しかめっ面していようが、傍から見て物凄く悲惨な状況に見えようが、本人が「楽しい」と思っていればそれで終わりだ。笑う、は、行動だから、目に見える。そして、確かに、楽しいという気分はひとくくりにされて表現されるが、笑いには、媚びる笑いとか思わず笑うとか、軽蔑した笑いとか、いろいろある。なるほどなあ。違いは分かってはいるけど、体得した感覚は、本当にヒトを考えさせる。
そしてもう一つ、飲む人じゃないとわからないことがあり、それも以前、職場の先輩から聞いたことがある。それは、私から尋ねたのではなく、浮気や俗にいう一夜の過ちについて、先輩がなにやら語っている時だった。彼はこう言った。
「酒のせいにする奴いるけどさ、あれ、絶対嘘だぜ」
と。理由は、深酒くらいで記憶は飛ばない、というのだ。
「酒飲んで記憶がないっていうけど、絶対、嘘。何をやったか絶対覚えてるって」
先輩が異様ににやついて重ねて言うので、これは絶対くるな、と思いながら仕方なく自分も「そうなんですね」と相槌を打ったが、案の定「ナニをやったか、全部な」と、ダサく締めた。決まった!という顔をしてひゃひゃひゃと笑っている。まあ、この人はどうでもいい。
飲まないからわからないが、酔ったまま寝て、飲み屋からの記憶がない、というのはよく聞く。なので、特にそれを疑ってはいなかった。自分には、酔って記憶を失うことはないという「断言」は新鮮で、若かった自分は、考える。
『100%正しいわけではないだろうが、それを口実に使う文化的側面というのもあるんだろう』と。
その後、何人かに聞いたが、忘れちゃうよというヒトもいるし、確かに忘れないなというヒトと、半々のイメージだった。まあ、アルコールに対する強さも、シチューエイションもそれぞれだろうし、実際はどっちもあるんだろう。ただ、忘れる頻度というのはかなり少なく、よほどの深酒でもしないとない、という印象も受けた。
で、ぶちまけた紅茶である。
状況は以下だ。
自分は、長いソファに横たわっていて、「あ、寝てた」と思い、起き上がったのだが、身体を起してソファに座ったところ、下の絨毯がベロー―っと濡れており、そこに紅茶のカップが転がっていたという次第である。
これが、全く、記憶に残っていないのだ。
あ、いやいや、ちょっと待って!
くだらない、と読むのをやめないでください。
これが、例えば、眠気が強くて、そこに紅茶のカップを置いたことを忘れたとか、置いてあったことを失念した、なら、私も不思議に思わない。何かのはずみでカップを倒すことなど当たり前にあるだろう。
でも、そうじゃないのだ。
私は、コーヒーでも紅茶でも、緑茶でも、机に長くついているヒトの一部にはしばしばみられる習性だと思うのだが、「お湯の継ぎ足し」ということをよくやる。初めは普通にコーヒーを淹れるのだが、ドリップした分がなくなると、今度は、カップ内の減ったコーヒーにお湯を入れて薄くなった「コーヒー湯」を飲むのだ。単純に面倒くさい、ということもある。で、酷い時はこれを繰り返し、アメリカンの3乗くらいの、お湯飲料を飲んでいたりする。
で、この時は、紅茶だったのだが、はっきり覚えているのは、「お湯紅茶」にしたカップを作業机のところまで持ってきたところまでなのだ。カップを持ったまま机を見下ろし、そこに立っている記憶である。
いくらなんでも、こんな記憶のまま、意識が途切れるってあり得ないと思わないか?
こぼしたことは、仕方ない。デカいシミもまあ、良くはないが良しとしよう。でも目を覚ました時、自分は、机のすぐ横にあるソファに横たわっていたのだ。凄く眠くても、いくら死にそうに眠くても、机の上に置くとか、手に持ったお湯をどうにかしようと思うだろう?思わないまでも、普通のヒトなら、無意識に水平面に置くと思うのだ。
ところが、紅茶のカップは床に落ち、絨毯が犠牲になっていた。
自分が理解できない。
まさか、持ったまま、横たわったというのか?
ならば、身体の上に熱湯をぶちまけなかっただけ、かろうじて理性があったという、ラッキーな結末、という事なのだろうか?
はあ。
やっとこれでタイトル回収終わりです。
自分はこの時初めて、記憶を失う自分を知り、そのあまりにきれいな記憶の消失ぶりに、酒飲み(の気持ち)を類推する(に至った)という次第です。
(おわり!)