ここ数年!?なのかわかんないけど、推すということが自分の周りでも頻繁というか、もはや当たり前のことのように言われ出した。自分が推しという文化があることを知ったのは、確か宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』を読んだくらいだった気がする。
まだその頃は僕は前の会社で働いていて、アイドル事業をやっていたけどそこまで熱心にかかわっていたわけではなかったし、今となってみたらそれは推しだったんだろうけど僕がメインで関わっていた読モという存在はどっちかというと、憧れやタレント的な存在だと思っていた。そして時代は流れ、ひょんなことから自分でアイドルプロデュースをすることになって現場に行くようになり、目の前で推す人と推される人の関係を見るようになった。
いつかこの推し文化をテーマに楽曲を、そしてライブを作りたいなって思ってから注意深くそのシーンを観察⁉というか勉強⁉するようになった。というのも、僕は正直“推す”という感覚がわからないから。誰かのためにっていうキーワードが推すということなら僕にもわかる。マネージャーという仕事はタレントにために働いている人が多い。給料とかもちろんいろいろ理由はあるけど、メインは誰かのために働いている。でも推すとはちょっと違う気がする。当初は距離感の問題かなって思ったり、責任の有無かなと思ったり、いろいろ想像はめぐらせたけど、どれもシックリこない。だから最初はありのままに自分が推すとはこういうことなのかな?と思ったことを書いた。
Layn『偶像崇拝』
そして推されるほうの視点も、僕はそっち側の人たちとお仕事してる距離感なので注意深く観察した。それでできた夏曲。
Layn『夏の声が聞こえる』
このくらいの時期から(夏の終わり)推すほうと推されるほうの関係がなんとなく見えてきた気がした。ものすごく歪に、そして決して美しいだけじゃない共依存にも似た関係。
Layn『月と太陽』
でもなんか、この曲が最終的な答えになるにはまだシックリきてないというかなんというか。2月のワンマンライブが3年近く一緒にやってきた現Layn5人での最後のコンセプトライブ。それまでに答えが見つかるかどうか。
年末バタバタしすぎて、会社のことやらなんやらでゆっくりする時間がなかったから、今日はようやく午前中をゴロゴロして過ごせた。今日もひとつずっと先頭を走り続けたグループが終わる。この瞬間を永遠にするために、毎日覚悟を持って生きなきゃなぁ。