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【吉原遊女】遊郭「吉原」で生きた華と哀しみ・6代目高尾太夫の運命とは?
遊郭「吉原」での過酷な10年
江戸時代の幕府公認遊郭「吉原」は、男性にとって夢の場所でありながら、遊女にとっては外の世界から隔離された厳しい場所でした。遊女は18歳から28歳までの10年間を「年季奉公」として働き、ようやく外へ出られる生活が約束される一方、その道中には多くの試練が伴いました。
吉原で「太夫」となるには、外見の美しさだけでなく、高い教養や洗練された芸の腕が必要でした。その頂点の称号「高尾太夫」は襲名制で受け継がれ、特に優れた遊女にのみ与えられました。こうして「高尾太夫」の名をもつ遊女は、特別な存在として顧客や遊郭内で尊ばれたのです。
6代目高尾太夫と榊原政岑の出会い
6代目高尾太夫は、播磨藩主・榊原政岑(さかきばらまさみね)に見初められました。遊び好きで放蕩者だった政岑は、多額の費用をかけて高尾を「身請け」し、遊郭から解放したのです。身請けとは、前借金などの負担を肩代わりすることで、遊女が奉公を終えて自由になる制度です。政岑のこの身請けにより榊原家は財政的に大打撃を受け、やがて越後(新潟県)への転封処分を受けました。
吉原を去った高尾太夫の新たな生活
政岑と共に越後へ移った高尾太夫は、彼の死後、江戸に戻り尼となり、静かに余生を送ったとされています。激動の遊郭時代を経て、高尾太夫にとって身請け後の生活が幸せであったかは明らかではありませんが、少なくとも吉原での喧騒から離れ、静かな日常が彼女に安らぎをもたらしたかもしれません。
波乱に満ちた10年の果てに見つけた平穏な暮らしは、高尾太夫にとって一つの救いとなったことでしょう。彼女のような遊女にとって、騒がしさとは無縁の静けさこそが、人生の真の贈り物だったのかもしれません。