坪内逍遥『小説真髄』を読んでの感想
坪内逍遥の『小説真髄』は、日本近代文学を語るために不可欠の作品です。この書物は、従来の物語文学から近代文学へと移行する過程を理論と実践の両面から論じ、文学の新たな方向性を指し示しました。
「小説とは何か」「芸術(本書では美術と表現)の本質とは何か」といった問いに向き合い、明治時代の文芸思潮を反映した内容は、今なお文学史の中で高い評価を受けています。かつては絶版となっていましたが、重版再開により手に入れやすくなったことも、忘れてはならない点です。
上下巻からなる本書は、上巻で小説の本質を理論的に解説し、下巻ではその技法を具体的に示しています。特に擬古文で書かれている点は、当時の文体を踏襲したものであり、現代の読者にとってはやや読みにくい部分もありますが、その分、深い洞察を得るための覚悟を求める内容となっています。この構成は、上巻が「理論編」、下巻が「実践編」と位置づけられ、文学の本質を体系的に学ぶ貴重な手引きとなっています。
坪内逍遥が説く「小説の首脳は人情であり、これに次ぐのは世態風俗である」という考え方は、本書の核を成しています。ここでいう「人情」とは、人間の持つ感情や煩悩を指し、小説家にはその内面を描き出す使命があるとしました。この視点から、坪内は『南総里見八犬伝』の登場人物を批判し、理想化された架空の人物には現実味がないと指摘しています。一方で、著者である滝沢馬琴の文学的功績については、その価値を公平に評価しており、批判と称賛のバランスが取れた議論を展開しています。
また、坪内は主人公を造形する方法として、先天法(演繹法)と後天法(帰納法)の二つの手法を挙げています。先天法では理想的な性質を基に人物を設計し、後天法では現実の人間から観察された特徴を組み合わせて人物を構築します。このように、哲学や科学で用いられる方法論を小説のキャラクター造形に応用した点は、近代文学の新しい可能性を示した斬新な試みと言えるでしょう。
『小説真髄』は、現代では当たり前とされる多くの概念を含んでいるため、目新しさに欠けると感じるかもしれません。しかし、近代文学の基礎を築いたその価値は揺るぎません。
本書は、日本文学がどのようにして新しい地平を切り拓いていったのかを理解する上での重要な鍵であり、文学史における転換点を知るための貴重な一冊です。坪内逍遥の思想を辿ることで、近代文学が生み出した深い洞察とその影響をより深く味わうことができるでしょう。