冬ピリカグランプリ2022応募
赤提灯
― 先輩のことば ―
社会人になったばかりの頃、私は慕っていた人物がいた。それは、同じ職場の五歳年上の先輩である。
仕事のことにはめったに口出しはしないものの、暖かく見守ってくれた。仕事を離れても四月は花見、七月は海水浴、それに新年会・忘年会と率先して段取りをしてくれた。
それにも増して、社会人としての心構えを示唆してくれたりもした。
学生時代の窮屈な環境から解放されて、また多少ではあるが金銭的な余裕ができた私は、毎晩飲みに街へと繰り出した。
前述の先輩も幾度となく付き合ってくれて、色んな話題で楽しいひと時を過ごした。
赤提灯の灯りに誘われたサラリーマンが二人、居酒屋に居座ってすることといえば上司のこきおろしか、愚痴のこぼし合いが相場なのだろうが先輩は違い、まったくその素振りさえみせなかった。
そんなある日、行き付けの店でのことである。やけに神妙な面もちの先輩から突然、
「人間、一番大切なことは何だと思う?」
と尋ねられた。いきなりのことで考えがまとまらず躊躇したが、
「えーと、マナーとモラルだと思います」
と、なんとか答えた。意外にも満足な返答ができたと、私は内心ほくそ笑んだ。
「ほう、もう少し詳しく聞かせてくれないか?」
「はい、社会人として生きていくためには、挨拶とか目上の人を敬うなどの礼節が必要です。それに加えて、向上心とかやる気がないと、人間、進歩がありません」
と、道徳の教科書のような説明をした。
「そうだな、確かに大切だな」
奥歯に物が挟まったような言い方をする先輩に、少し不満を覚えた私はやんわり質問した。
「先輩はどうなのですか?」
「うん……そうだな、誠実なこと、だと思うのだ」
先輩は続けた。
「人間というもの、他人に誠実であることはもちろん、自分にも誠実じゃあなければならないと思うのだ。誠実とは……、そうだな、素直と言い換えても良いだろう。我々、本当に自分に素直に生きているだろうか」
感慨深い言葉に、私は感じ入った。
その日、別れ際に先輩から、会社を辞めて海外ボランティアの活動に携わるつもりだ、と告げられた。
突然のことで、私は心中穏やかではいられなかった。しかし、赤提灯は切なくも揺るぎなく灯りを灯していた。
それから三か月後、先輩は会社を辞めて中東へ旅立った。
十年が経ち、私は一家の主となり三人の子供にも恵まれた。そして今、折に触れて『誠実』について考える。
先輩の意図した『誠実』に少しでも近づけているだろうか? 『誠実』について、まだまだ薄っぺらなことしか言えない。でもしかし、これからもこのことばを大切にしたい。
先輩と行った赤提灯の灯りが懐かしくも、愛おしく思い出される。
(1100文字)