不平不満を言わない(?)
この言葉は約30年前に出会った「教え」だ。その時は「じゃあどうすれば良いか?」と問うと「感謝しなさい」と教えられた。なるほどと思いながらも、不平不満を言いたい時に感謝できるのだろうか?という疑問が残った。
その後、不平不満の原因となる「嫌なこと」を「試練」と捉えて、克服したら自分が成長できるということか?つまり「試練」は神様から与えられたものであり、それは自分が成長するための機会だと考えることで、(神様に)「感謝」できるのだと理解した。
最近そのことを思い出すことがあって、改めて考えてみた。不平不満の原因となった“嫌なこと”があったのは事実だが、それは“自分にとって嫌なこと”ではないか。それは他人にとっては取るに足らないことかもしれないし、時が経てば自然に解決するかもしれない。そもそも「自分」という概念があるから「不平不満」という思いが生じる。つまり、『自分を無くす』ことができれば“嫌なこと”も存在しなくなるのではないか。この時の“自分を無くした自分”は『神様の目(目線)』で観ている感覚に近いと考える。これは自分および自分を取り巻く環境を客観視しているとも言えるが、その中に“神の愛”を感じた時に自然と「感謝」の気持ちが芽生えるのだろう。