生来の堕落について。
ども。
毎度、院長です。
ご無沙汰しておりますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
拙者はこの時期、数年前にもやらかしてしまったのですが、とんでもない咳喘息に見舞われておりました。
だいぶ楽になってきておるところで、ようやくブログ更新となり。
確か4年前の今頃にも同様の状態になり、すごい咳き込みに肋骨にヒビが入るだか折れるだかしていたんじゃね?的な痛みが続いておったことがあります。
今回は用心して咳き込んでおりますので、今のところそこまでの痛みはないのですが、仕事上困るんす。それに電車内とかも、この時期としては特に。
ここ数年、世界的にもコロナ感染に相変わらずピリピリしておるわけで、そういう中で咳をしたりするのは、実に勇気(?)がいるもんです。
診療中においても、あらかじめ患者さん方には「拙者、咳喘息にて咳き込みますです。コロナじゃないですので、ご安心くだされ。」などお伝えしたりしていることもあり。
電車内においても、「拙者、コロナじゃなく咳喘息にて」などふだをぶら下げておこうか、と思うくらいであり。咳するとすぐさま睨まれますんで、コロナ禍においては。
咳ひとつ自由にできないというのは、全く窮屈な世の中であります。
おならにしても咳にしてもゲップにしてもしゃっくりにしても、そういう生理現象の表現の自由を保障する世の中であって欲しいものだと、うっすら思うところであり。
でも実際そういうものが全て解禁される寛容な世の中になったとしたら、少なくとも食事の席においてはなんらかの心構えが必要になろうことかと思ったりもし。
さて。
今回はそんな咳喘息の合間にちびちびと読んでいた、メルヴィルの「ビリーバッド」という遺作に関して、メモしておこうと思った次第です。
海洋小説(「白鯨」など)で有名なメルヴィルのこの作品、以前読んでいた國分功一郎の本の中で議論されていたので、今回読んでみたのでした。
概要としては、18世紀末、商船から英国軍艦ベリポテント号に強制徴用された若きハンサムセイラー、ビリー・バッド。新米水兵ながら誰からも愛される存在だった彼を陥れる闇の力。「生来の堕落」に蝕まれた先任衛兵長クラッガートが、純真無垢(もしくは白痴性とも取れる)なビリー・バッドをねたみ、濡れ衣を着せ、最後にはその両者ともに命を落とす。
説明し難いけれど実存する、「人間本性そのものに根ざした、生来の堕落」という心の闇を、うまく描写しているなと思うたのでした。
自分のうちにあり、そして人の中にもある、闇の世界。それをねたみという視点から言及する國分功一郎の文章にも、拙者は興味を持ったのでした。
嫉妬とはある人の愛情が自分ではない別の人間に向けられることに対する憎しみであり、常に第三者が関わっている。そして第三者が関わっているがゆえに、この第三者さえ取り除かれれば(少なくとも暫定的には)嫉妬は消える。
それに対し、ねたみは自分自身に関わっている。その意味でねたみはより根源的である。(中略)
スピノザはねたみの感情を解説して、何人も自分と同等でないものをねたみはしないと言っている(『エチカ』第三部定理五五系)。
「この人は私とは違う」「この人は私よりも、もともとすぐれている」と思う人物のことを人はねたんだりしない。「こいつにこれができるのなら自分にだってできてもいいはずなのに」「あいつがそうであるなら、自分だってそうであってもいいはずなのに」と思える人物のことを人はねたむ。ねたみは比較と切り離せないのであって、比較できないもの、例えば自分とは格が違う人物に対しては人はそのような感情を抱きはしないのだ。(中略)
人は空を飛べる鳥にあこがれはしても、鳥をねたみはしない。言い換えれば、ねたんでいる時、人は相手に自分を見ている。(中動態の世界/國分功一郎)
近年、種々の事件で耳にする「拡大自殺」についても、上述の視点からの説明もある程度の段階まではできるのではないか、という気もいたします。
以下はメルヴィルの堕落についての説明、一部を抜粋。
拙者、このような生来の堕落について、政治の世界なども含め、日常の中で遭遇することもあり、メルヴィルの描写については唸るところがあるです。
堕落、それもかなり狡猾な類のものは、きわめつきの慎重さを常にもっている。なんでも隠そうとするからである。傷を負う危険を嗅ぎつけるや、全てをひた隠しに隠そうとする。そのくせ、たじろぎもせず、当てずっぽうのくせに、確信にもとづくかのような行動を取る。また、報復するにしても、受けたはずの侮辱よりはるかに大きなものへと膨らませようとする。(ビリー・バッド/メルヴィル)
最後に、以下は解説文からの抜粋です。
コロナ禍で種々の行動が抑制され、有事の状態が数年単位で続く中で(有事の中の平時)、人の思いや正義というものについても、引用文の通り、露骨な形で変化し、行動に反映されてくる様子を見てきているように思います。
価値が多元化した世界では、もはや、なにが正義なのかではなく、だれの正義なのかが問われるようになっているのだ。今まではっきりしていると思っていた物語が、じつは曖昧で不確定なものに見える、そんなポストモダンな空気を吸って私たちは生きているのである。(強調部分、原文では傍点)(ビリー・バッド/メルヴィル)
曖昧で不確定な時代を生きる。
先日同業者の方から拙者宛に、「以前ブログに登場していた、はえとりくもこ事務員は在室中かどうか」について問い合わせが来ておりましたので、ここでお伝えしておきます。
曖昧で不確定な時代においてもなお、この件については確定的であります。
やつは、2014年に旧診療所から現在の診療所に移転して以来、閑職になっておりました。というのも、現在の診療所は比較的綺麗なせいなのか、気密性に富むせいなのか、以前の診療所より虫が湧きにくく、はえとりくもこの出番が少なくなってきておりました。
しかし、2018年に診療所関連施設エリムガーデンが開業してからは、やつはそちらの施設に異動となり大活躍中であります。
なぜかというに、エリムガーデンは1階にあり、1階というのは本当に虫が多いようで、しょっちゅういろんな大小の虫たちが玄関から挨拶もなく入り込んでおり。
そういう不法侵入の輩を、はえとりくもこが寝ずの番で頑張って対応してくれております。
以上、報告まで。