INTERVIEW.15 織井寛之さん
駒ヶ根駅から駒ヶ根文化会館へと続くゆるやかな坂道をのぼり、突き当りを右に曲がって文化会館の駐車場を過ぎた先に織井不動産の事務所が現れる。今回、取材をさせて頂くにあたり、今の駒ヶ根のまちなかに思いをもって活動されている人として、織井寛之さんの名前がすぐ思い浮かんだ。
まちなかでは現在、織井不動産が手がける駒ヶ根「本町」プロジェクトの解体工事がはじまったようで日に日に地域の人たちの関心を集めている。
「不動産業を継いで約20年やってきて不動産としての経験もある程度積んできて、人のつながりや地域のこともわかってきた。年齢と知識と経験が合致した今のタイミングにいたのがたまたま自分だった、そんなふうに思ってますけどね」そう語る織井さんは今年43歳。
織井さんは駒ヶ根市生まれ、駒ヶ根育ち。大学卒業後は名古屋にある建材屋に就職。鉄骨やホースの束売りで取引先を回るルート営業の仕事だった。全国転勤もある会社で、田舎に帰ってくることなんて微塵も考えなかったという。そんなとき駒ヶ根の実家から連絡がきた。
「親父が余命3か月だっていうもんで。じいちゃんと親父が二人病院に入院してるような状態だった。今振り返れば、帰ってこないという選択肢もありだったと思う。こっちはこっちで仕事があるから、そっちはそっちでやってくれって。でも自分にはできなかったんですよね」
いつかは地元に帰るかもしれない、という漠然とした思いはあったものの、まさかそのタイミングが今来るとは思っていなかった。織井さんが選んだのは田舎に戻るという決断だった。当時23歳。
田舎に帰ってきた織井さんは実家の不動産屋を継ぎながら、消防団や駒ヶ根青年会議所などの活動も精力的に行った。若い同世代の面々と切磋琢磨しながら地域社会への関心もより一層湧くきっかけとなった。
「わたしが会社を継いだのが23歳なんで。もともと不動産業ってのがわからず、突っ走ってきた20年間なんですけど、その間に消防団に13年間いたりとか、駒ヶ根青年会議所に6年間いたりとか、地域との関わり合いを結構な時間持ってきたので。ここで住んでいる人たちのこうしたいああしたいという思いは身近でくみ取るようなことはできてきたのかなと思うので、そういう中で不動産の仕事を発見してゆくことがありましたね」
2017年に青年会議所の企画で開催した空き店舗ツアーによって、織井さんのまちなかへの思いはより一層強くなってゆく。
「けっこうそこは試行錯誤していて。どうしたらまちなかを活性化することができるのか青年会議所でよく議論していた時期があって。空き店舗でスタンプラリーをしようとか、空き店舗で一時的に保健所の許可をとって飲食店をやろうとか、いろんなアイディアが上がってきたんだけど、それが最終着地点として空き店舗ツアーってかたちになったんです」
「この空き店舗ツアーをやってみてわかったのは、まちなかは権利関係もものすごく複雑だし、あのおじいちゃんが持ち主なんだけどまだ相続できてないんだよねとか、あそこのひとが持ってる物件なんだけどまだ中に荷物がたくさん残ってるんだよねってことがたくさんあったってことで。だからそこの話をきっちりくみとってゆけば、人に感謝もされるし、達成感的なものが格別だなって」
空き店舗ツアーをするにあたって、同じ地元の不動産屋の協力もあった。
「他の不動産屋のひとたちに、今度、空き店舗ツアーに参加してもらえないですかねって話をしたら、そこで思った以上に物件情報が集まってきたんですよね。これまでそういうきっかけがなかっただけで、きっかけがあれば協力してくれる人たちはいたので」
データの残る1977年にはおよそ230あった駅前商店街の店は2017年には170店舗までに減少した。しかし、この空き店舗ツアーの後、毎年少しずつシャッターが上がってゆき、コロナ禍もありながらも直近約5年で約25店舗以上の開業という実績が積み上げられた。
「空き店舗ツアーには、開業したいっていう人が10人くらい集まってくれて、そこで空き店舗と店をやりたいという人をマッチングするっていう潜在的な需要があったことに気づいたんですよね。わたしはそこに引っかかるものがあったので、もっと掘り下げてみたらおもしろいかもって思って掘り下げていったら、(空き店舗を)貸したい、売りたい、何とかしたいって思いがあって、そういう人たちの課題を解決できながら、新しく店をやりたい人たちがまちなかに入ってくるということは二重の効果が得られるなって思いましたね」
まちなかでシャッターが開くことは、ただ1つの店が開業したということだけでなく、それにより街に明かりが灯り、人の流れが生まれ、すでに店を構えている人たちの意識も少しずつ変化させてゆく波及効果がある。まちなかの物件を動かすということは地域を動かしてゆくことにつながる。
「課題解決型の不動産が好き。だから空き家で、草木もぼうぼうで、どうしてくれるんだっていうような物件をなんとかしたいって思っちゃうんですよね」すかっとした笑顔で織井さんは話す。
昨今、地方では商店街が廃れ、郊外に大きなショッピングモールが建設されるモデルケースが進んでいる。その時代の流れには抗えないのかもしれない。駒ヶ根は大型ショッピングモールはできていないものの、郊外を開発して、分譲して、土地と建物を売り続けることによって市街地に人がいないというドーナツ化現象が起きていると言われる。
「駒ヶ根の歴史を振り返ると、昔、中部電力が大きな水力発電をつくるっていうことで結構な人の数が駒ヶ根に来てたんですよね。そのときに商店街にお寿司屋さんができたり、芸者が80人いたっていうから、ほんとに活気がある場所だったんで。昭和40年代の再開発で今のかたちなったんだけど、そこからもう60年近い年数が経っているもんで、そろそろ自分たちでこれからの時代にあった街づくりのことを考えてゆかないと、自分たちの代よりももっとこの先の代が大変なことになるぞって思うから。だから今やんなきゃって思いに駆られているというか」
そうしてスタートした駒ヶ根「本町」プロジェクト。現在は解体工事が始まっているが、実際は3年ほど前から土地の所有者と地道な整理を進めていた。進捗が地域のひとたちにも見えるかたちになってきたのが今の様子だという。
旧赤穂信用金庫跡地を活用したまちづくり事業。敷地内には新たに2階建てと3階建ての建物を4棟建設し、1階はテナントが5,6店舗、それ以外はアパートとして約20世帯が暮らし、住民同士が交流できる小さなまちのような場所を生み出す。すでに銀行や郵便局、文化センターに保育園、コンビニや飲食店、スポーツジムといった環境が徒歩圏内に整っているところに人が住む環境ができたとき、どんな人の流れが生まれるかという実験的な試みでもあるという。
「これがひとつのきっかけとなって、地域住民や商店街に住んでいる人たちがもう一回、商店街に目を向けてもらって、その魅力に気づいたり、頑張ってみようという機運につながればと思っています」
現在の駒ヶ根市街地には新しい人の流れが生まれつつある。そのひとつが広小路の交差点から文化会館へと続くゆるやかな坂道のすずらん通り。通りには花屋やマフィン屋があり、ヴィンテージの古着屋やシェアオフィスなども生まれ、これまではなかなか見かけることのなかった子育て世代や若い世代の人たちの歩く姿を平日に見かけるようになってきた。駒ヶ根「本町」プロジェクトの敷地はすずらん通りの端から目と鼻の先の距離であり、これからはもっと広い範囲での人の流れが生まれる可能性を秘めている。
「日本全国の課題だと思うんだけど、地元の不動産屋が開発して、こんなこともできるんだよねっていうモデルケースにしたいです。人口3万都市でもこんなことができるんだよってことを見せたい」と語る織井さんの表情は清々しい。
もちろん、かつて商店街が発展したようなやり方では今の時代では難しいこともわかっている。商店街の組合員の高齢化や後継者不足、テナントの家賃が高すぎても入居者は現れないし、でも安きに流れてもただの価格競争に埋もれてしまう。仮に郊外に大型のショッピングモールができたとしても、商店街だからこその価値や魅力を生み出し差別化を図るには、この地域にかかわるひとりひとりの当事者意識の変化が必要なのだろう。
「自分のできる道で精一杯地域に貢献したい。それが自分の場合、たまたま不動産だった」
この壮大な実験の答えはまだ誰も知らない。けれど、織井さんの一歩は踏み出された。この道の先にどんな景色がひろがっているのか、織井さんは見たいのだ。