隠されていなかった遺体
森永卓郎さんの著書で、長年日航123便の事件を追いかけている青山透子さんの書籍などが取り上げられていた。隠されていた遺体・・・というタイトルは証拠隠滅で炭化するまでに焼却されたということを伝承する話を当時の看護師さんらから聞いたということだ。現地で焼却されたはずの遺体の写真は程度の差はあれ無残な現場の写真として自衛隊の方々が御巣鷹の森に入って収容されていくという写真は隠されていなかった。
そもそも、123便は垂直尾翼は失ったもののダッチロールを繰り返しながら御巣鷹山上空をとんでいたはずでありその速度から木を薙ぎ払いながら墜落した筈なのである。それが政府説明であった。隠されていない不都合な遺体の写真からはそうしたことが見て取れない。上空で爆発されて投げ出されたとしか見えない御巣鷹の森の木に突き刺さった遺体をどう説明するのか。
落合証言含めて、墜落前にあった大きな音で機体がその時点でどのようになっていたのか。炎をあげて旋回して落ちていくと報告した地元の方の証言はなんだったのか。米国から公開された資料からは、政府見解を説明してきたものとは異なる事実が出てきていると改めて最近、書籍をオンデマンドで上梓された方がいらっしゃるということをYoutubeで見つけたので購入することにした。
20年ほど前に、米国系の会社で働いていた際に、米国から出張できていた同僚からかつて横田基地で働いていた父から聞いた子供心に大きな疑問をいだいていたというその話を聞かされた。
123便についての話だった。横田基地への着陸要請があり、その許可を出していたにも関わらず、断り、その後の墜落後の迅速な横田基地からの現地ヘリ到着と救援作業についての政府からのお断りがなされていたことの憤りをもっていたというのだ。日本人から是非聞きたいと思っていた・・・と。
私も当時、同日に相模湾上空を飛んでいたのだが、羽田空港に到着したときに凄い渦中に遭遇した。テレビテロップに流れた報道はさまざまな物があったらしい、やがてそうした内容は間違いだった旨が流れたりしたようだ。自分たちが家につきテレビから得られたものはその後のことで夜間なのでヘリが飛べずに墜落地点などが分からないというような内容だったり、やがて長野県の北相木村だとかそういった情報が流れて居た。
これ以降この事件については、事故だと思ったことはない。改めてそこまでの15年余りのことが実は関連してしまうことなどにまでは思いいたらなかったが、あれから40年ちかくたち失われた30年という言葉の底流あるいは起源がそこにあったのかと考えている。
丁寧に解析しようとしている方々がいる反面、いままで流れて居た中途半端な政府見解で垣間見せた情報にいつまでも縛られている方々やあくまでも真実に辿り着かせないようにしている方々がいる。もしあの時に事件にならずに事故で終わっていたらどんな現在になっていたのかと考えている。