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蝶楽天の軌跡を追う[1]

4/7早朝 療養中の長兄が亡くなった。兄は昆虫採集家であり、「むしやまちょうたろう」昆虫標本商ともいわれて世界各地に採り子を擁して活動もしていました。晩年は、自身の事を蝶楽天と呼んで白楽天のように暮らしていこうとしていたようです。ここでは、そんな兄の軌跡を探索して振り返っていきたいと思います。

昆虫界では、唯一となる月3回発行の週刊誌TSU-I-SOを長年にわたり主筆として発行してきました。
普通の物差しでは測れない、暮らしをのびのびとされてきた自由人でもありました。

我が家の流浪の生活の中で、兄が住んでいた広島縣の田舎では昆虫採集が唯一の仲間だったようです。
小学校の学齢に達する頃に広島縣で行われた小原國芳先生の全人教育の講演会に父親が参加して感銘を受けたのがきっかけ、次兄が早世したり、姉が生まれる頃に母方の親族が原宿で始めた玩具屋の事業に参加する形で家族に流れていた不幸を切り離そうと新天地を目指して上京しました。兄は、労作や農業なども含めたシュタイナー教育的なスタイルで始まった夢の学校である玉川学園に通い両親の期待はとても高かったのだと思います。

東京の家では、私と更に二人の妹が生まれ五人兄妹となり両親は親族経営の会社で書店勤務の母、玩具店を任された父が働き子供たちはそんな書店の二階と祖母の住んでいる家とを毎夕行き来して暮らしてきました。東京五輪が開催されて住んでいる原宿の町は町名改正やどぶ川の暗渠化、瀟洒なマンションが立ち並び大きく様変わりしました。米軍の高官対象のキャンプであるワシントンハイツが返還されて競技場となり米軍相手の玩具販売から五輪で訪日する海外の方を対象に都内のさまざまなホテルの土産コーナーとして出店攻勢をかけたり表参道の玩具本店も新たに高層で立て直して旗艦店として米国風の玩具に触ることが出来る子供にとっては夢のようなお店となりました。

とはいえまだまだ都内とはいえ、普通の玩具店では買いたいものはどの店でもカウンターの奥にあって棚から出してもらうのが普通であり近くに住んでいるからといって中々買うことも出来ない子供たちにとっては触れるとはいっても買えない客としては追い立てられるので店の名前をもじってケチィランドなどと揶揄されていました。五輪景気が過ぎ去ると出店攻勢で展開した多くのお店も足かせとなり、全国展開を始めて関西の旗艦店となる梅田店の出店などの動きについて、まだ商慣習も整わない国内の玩具卸などとの争いとなり拡張志向の社長と周囲環境などの間に挟まり父は退社することになります。社宅として住まっていた本屋の二階も玩具倉庫として使っていた祖母が住んでいた家も離れて、新たに父が世話になる靴問屋の社宅となる一軒家が宮廷ホーム近くにあったのでそこに引っ越しました。

この家には一年と少ししか住みませんでしたが兄は、その家の部屋を一つ研究室として使い専用の冷蔵庫を置いて蝶の卵を冬眠させたり季節をずらして家の中を幼虫がはい回ったりという生活でした。この時兄は、玉川大学で学びつつ蝶の研究に没頭している時代でした。母方の親族経営でやっていた会社にお世話になってきた家族ではありましたが、会社が倒産することに至る過程で懐柔された側になった父の退職により母とその親族の間はとてもぎくしゃくしていました。結局会社は倒産して社長である伯父は更迭されて会社更生法で再建することになり管財人の方が来ることになりました。母の働きかけで父は復職することになり、また我が家は社宅を失い、新たな社宅を求めて東京から千葉市にあった団地に設けられていた書店が住居部分含めて使える事になり母が書店を任され、父も玩具部門の仕事にもどることになりました。

折角の研究スペースを得た兄でしたが、宮廷ホームの家からは竹下通の下宿先ににまた移り、更には独立した場所で自由な仕事をしていくという流れになり、この辺りは兄妹よりも虫屋さんたちしか実体をよくわからない状況になっていきました。こうした状況が1968年でした。TSUISOが木曜サロンでの配布から雑誌として復刊されたのは1975年なので7年くらいの経緯があります。

兄が雑誌を発行してから1年後に、姉と私も社会に出るようになりどれだけの人たちに届いているのかを知ることも少なかったです。時折、兄の要請でかぶとむしのドリンク製作を手伝わされて怪しい調合のドリンクを作って瓶詰したり、白木屋の屋上のカブトムシ販売イベントの売り子にされたりということが私と兄の学生時代の接点でした。

逝去に際して、過去のタイムマシンを読み解くようにTSUISOの紳士録をオークションで見つけて読んだりしてどんな方に届けていたのだろうかということを再確認していたりします。兄の手書き文字で書かれてきた雑誌が45年あまり続いてきたことを、今ネットの記録越しで回想しています。

最後の号ではロシアウクライナでの採集家の方との触れ合いにも書かれていて平和の中での暮らしを体現されてきた人でした。今は、自由な身となって世界各地の仲間の元を訪ねて挨拶しまわっていることと思います。

兄の思いは最後の原稿TSUISOU1689号に残されているようです。



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