蝶楽天の軌跡を追う[2]
長兄が、昆虫に没頭したのは子供時代の思いがあるのだと思う。彼が生まれたのは終戦直後の大洲市あたりの田舎だった。ここで代用教員をしていた父が、銀行マンとして松山で勤めるようになり街中での暮らしになってから、また広島勤務で廿日市の佐方あたりの田舎暮らしに舞い戻り自然の中で幼少期を過ごせたのがきっかけだったのだろう。兄の戸籍は、愛媛の生誕地であり両親が戦後結婚した本籍地になっていた。兄妹で結婚していった姉や妹は戸籍を動かしていたのだが、私は結婚後本籍を移動したら、母がとても悲しんだのを思い出す。まあ三男坊ということでもあるのだが…
長兄は生まれた長浜町出海(現大洲市)の海やミカン山で過ごしていた子供時代も含めて本籍への思いは強かったのだと思う。この地は祖父が生まれ育った地であり、祖父は明治に生まれ時代の流れで鉱山技師になるべく都内築地にあった工師学校(現工学院大学)に学んでいたそうだ。祖母は、佐賀の生まれだったが幼くして両親がなくなり奉公に出されて時代のフィクサーだった杉山家にお世話になっていた。炭鉱に未来を見ていた祖父とは、杉山茂丸が考える大陸への夢などにひかれて出入りしていたことで祖母とはであったようだ。
祖父が三菱に勤務を決めて、長崎縣の事業所で働く中で父は炭鉱の高島で生まれて高生という名前を拝した。その後北海道の炭鉱へ移りほどなくして祖父は坑内事故で暴走してきたトロッコにはねられて命を落とした。北海道の暮らしの中で祖母が覚えたマトンのジンギスカンはその後、家族の味として再開することになる。三菱からいただいた多額の補償金を三菱銀行に預けて、その利息に基づいて祖母は祖父の実家に戻り小さな家を作り、煙草屋の道具などを購入して長浜町出海の地で逞しく子供たちを育てていったそうだ。
母一人姉弟二人はやがて松山市内に移り父は大学に進むときに祖父の北海道でのことにも思いが至ったのか拓殖大学に進み、祖母の弟が経営していた原宿の重永写真館に下宿して大学に通っていた。祖母の弟がやっていた写真館で近所の娘さんたちの写真現像とネガの修正などをしていたようで原宿生まれの母とはそこでであったようだ。母の家は原宿と渋谷道玄坂のあたりで糸屋をしていたようで母は伯父である兄に連れだって当時の高級だった同潤会アパートのお客様に届ける手伝いについていくのが好きだったらしい。伯父と父が町の若い衆の集まりで意気投合したのがきっかけで母との付き合いがはじまったらしい。しかし戦局は悪化していき、伯父が招集されて出陣し、さらには学徒出陣で父も招集されたが東京は焼け野原となり母の父や弟は大空襲で命を落としている。
学徒出陣で出征した父は復帰してきて当時母が疎開していた成木の地を訪ねたようだ。父は母を焼け野原となった東京から愛媛に呼び寄せて、母は単身東京から長浜町までの鉄道の駅を数えながら行き駅名は全て暗唱してしまったようだ。母が疎開していた地は、晩年兄のパートナーになった方の住まいとも近くとても複雑な歴史の流れを感じる。そして兄が生誕するのである。兄の次に広島の地で生まれた次男は幼くして亡くなり恐らく兄は弟に採った虫を見せていたのではないかと思う。弟が亡くなり家族としては不幸の流れを打破することを考え、伯父が復員してきて東京の地で米国人キャンプ相手のビジネスを始めるという話に参加して新しい未来を見据えて初めて生まれた長女と祖母の五人で東京での生活を始めることになり、日本の復興の流れを家族で享受しながら原宿の地で私から始まる三人の子供たちを新たに迎える生活になっていった。
田舎で蝶を追いかけていた兄にとっては神宮の森が近かったし、通学する玉川学園ははるか遠かったが労作などは彼にとってはマッチした環境だったと思い返す。