見出し画像

【読書noteNo.19 仕事に意味はあるのか?と考えたときに読んでほしい 岡崎京子『pink』】

この仕事に意味はあるのか?

仕事をしていると、時々こんな問いが、自分の頭の中に浮かんできます。

ネットや本を調べてみると、「どんな仕事にも意味はある」「意味を見いだせねないのなら、意味を生み出す努力をしろ」とか、反吐を吐きたくなる言葉がズラリと並んでいます。

そういう事じゃねえんだよ…。

それで解決すれば、どんなにラクか…

そんな悶々とした問いに、ズバっと答えをくれた作品が、今回紹介する作品です。

主人公は、ユミコという女の子(作中では、ユミちゃんと呼ばれているので、以下ユミちゃんと表記します。)。日中はOLとして働き、夜はホテトル嬢(今の言葉だと、※デリへル嬢と言ったほうがイメージしやすいでしょう。)として働いています。

※デリへル…デリバリーヘルスの略語。宅配ピザのように、女の子が指定した場所にやってきて、そういうサービスをしてくれます。

幼い頃に母親を失くし、継母を毛嫌いするあまり、ワニと一緒に、ワンルームマンションで暮らしています。ある日、継母の愛人で、小説家志望の男子大学生ハルヲと出会います。以来、ユミちゃんは、彼との仲を深めていくという物語です。(その後の展開については、ネタバレになってしまうので、ここで止めておきます。)

なぜ、ユミちゃんは、ホテトル嬢をしているのか?家庭的な事情や経済的な事情でもありません。それは、ペットのワニのエサ代の捻出のため、キレイなモノを買いたいからなのです。ちなみに、ワンルームマンションの家賃代は、実家から出ています。そう、彼女が売春行為をしているのは、『岡崎京子論  少女マンガ・都市・メディア』(以下、『岡崎京子論』)の作者である杉本章吾さんの言葉を借りるならば、「買うこと」と「飼うこと」のためだけです。さらに、杉本さんは次のように言います。

その後も、「物欲のカタマリ」(二一一頁)という自己認識に忠実であるかのように、ユミコは、「キレイなモノ」や「可愛いモノ」、「ピンク」なものへの愛を吐露し、「モノ」の<消費>のため、いっさいのためらいや後ろめたさを表明せず、その身体を商品として、男性の前に幾度も差し出していく。

『岡崎京子論』104頁より引用

作中のユミちゃんをみていると、自分の欲望に忠実で可愛い女の子だな~と思います。実際の生活で、こんな事ができるかといえば、よほど稼いでいる人しかできないと思います。実際、私も「節約」まではいきませんが、生活必需品以外の「モノ」は買わないように、つまり無駄使いをしないように気をつけています。


でも、そんな切り詰めて生活をしていると、冒頭の言葉に戻りますが、仕事に意味はあるのか?と考えてしまいます。

社会人になりたての頃は、まだピュアだったので、「仕事を通じて、自分自身を成長させよう」と思ったものです。しかし、今はそんなピュアな気持ちは完全に捨てました。というより、そういう気持ちを持てばもつほど、仕事に嫌悪感を抱くようになったからです。

そこで、仕事は生活を維持する上で必要なひつアクティビティ程度でしかない、と考えをシフトしてからは、精神的にとてもラクになり、仕事がかえって楽しくなりました。実際に『資本論』で有名なマルクス先生も『経済学・哲学草稿』という作品の中で、次のように言っていますし…。

労働者は一個の商品となっているので、自分を売りつけることができれば運がいいといえる。そして、労働者の生活を左右する需要は、金持や資本家の気まぐれに左右される。

『経済学・哲学草稿』18頁より引用

普段は、仕事を「生活維持する上で必要なアクティビティ」程度と捉え、自分が心の底から欲しい「モノ」が見つかれば(もちろん、無理に見つける必要はありません。「モノ」でなくても、「推し」のために働くのも立派な動機だと思います。)それを買うために頑張って働く方が健全なのでは?と考えました。

だって、資本主義社会で働く以上は、人間は所詮商品に過ぎませんし、「やりがい」を求めて働くのも、なんか違うと思います。自分の心身を守りながら働くって結構重要なんじゃないですかね~。自分一人が欠けたって、組織は不思議と回りますが、アナタという存在は替えがききませんからね。死んだらオシマイ。

ここまで長々と書きましたが、自分の欲望に忠実に生きるって大事であることを、今回紹介した作品から学びました。最後に、私が好きな作家の一人、坂口安吾の言葉で締めます。

人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。

『堕落論』「続堕落論」(角川文庫)126頁より引用

















いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集