indigo la end『邦画』考察——《反復》による「邦画」化と抗う「私」——
みなさんは、過去の経験を思い出すことはありますでしょうか。きっと、みなさんそれぞれがそれぞれの経験を思い出しては、後悔したり、あるいは感傷的な気分に浸ったりするのではないでしょうか。ことに過去の恋人との経験というのは、【始まり→過程→終わり】という分かりやすいストーリー構造を持っています。繰り返し、繰り返し思い出していくことによって、よりそのストーリーが整理され、一つの物語——映画のようになっていく。
今回扱うindigo la end『邦画』(https://www.youtube.com/watch?v=x72auX6NBCY)は、まさにこのような過程自体をテーマにした歌だと考えます。先に言いますが、少しだけわかりにくい話をします。それでも興味のある人はぜひ読み進めてください。それでは、歌詞を見ていきましょう。
1.「邦画」「洋画」の限定
まずは、タイトルでもある「邦画」の意味を考えていきましょう。もちろん、「邦画」とは日本の映画を意味する言葉ですが、歌詞の内容を見れば、場所や状況に限定がなされています。
1番と2番のサビを少し見てみましょう。
まず確認したいのは、それぞれの映画を映画館で見ているわけではないことです。少なくとも「キス」が可能なプライベートな環境ではあるはずです。任意で「字幕を切」ることができるのもそれを裏付けますね。
自宅やホテル、分かりませんが、プライベート空間におけるテレビで流れる「邦画」・「洋画」。そしてそれを見る目的は映画それ自体の鑑賞ではなく「キス」をすることにあります。この場合流されるのはたいてい恋愛映画でしょう。SF映画とか、マーベル作品では、「キス」する気分にはなりませんよね(これには主観的な判断があるかもしれませんが……)。
またこうした「キス」という目的に合わせた映画を自ら選択している可能性が高いことを踏まえれば、彼ら恋人同士はおそらくネットフリックスといったサブスクや、Blu-rayやDVDをTSUTAYAかなんかで借りて来て見ていることが想定できます。
それがどうしたと言われるかもしれませんが、ここで重要なのはこの歌が言う「邦画」がサブスクやBlu-rayといった形で複製され、ポータブルな形で、反復的に視聴されてきたものであろうということです。この《反復》こそが、この歌の重要なテーマだと考えます。
まとめると、この歌が指す「邦画」は、①恋愛映画で、②《反復》されてきたものが想定されます。これだけは押さえておいてください。
2.《反復》を拒む「私」
この歌の主体=「私」の主張は一貫しています。
すなわち、「今の私を見て」ということです。
「私」の恋人らしき人は、「私」の姿を「動画」などのデータでポータブルな形に残そうとします。あとで繰り返して見られるように——《反復》できるように。しかし「私」は「その度勝手に傷ついた」。それは、「今の私を見て」ほしいからです。
「今の私を見て」という「私」の思いは、「前作」=以前の恋愛を引きずってしまい、「今作」=今の恋愛の「末尾」=終焉を予感してしまっていることに由来します。「結局流れた名作の大女優」とは、まさに過去の恋愛=「名作」を引きずっている「私」を意味すると解釈できるでしょう。
動画で残されたってこの恋はどうせ終わってしまう。だからこそ「今の私を見て」と言うのです。ここで、恋愛それ自体が「前作」「今作」「名作」とまるで映画作品かのように扱われていることは覚えておいてください。
2番に入ると、「私」は動画で残されることだけでなく、もはや「想像」や「思い出」に対しても拒否感を示します。
「想像」や「思い出」ではなく、「今の私を見て」と歌う。これ自体、もはや「私」は今の恋人にとって「想像」や「思い出」だけの存在になってしまうだろうことをほとんど確信してしまっています。
ここでは重要な発想があることを見逃してはいけません。「想像が悪くなって形を成す」という部分です。おそらく、破局したあと、「想像」の中で「形を成す」。どのような「形」になるのかと言えば、——以前の恋が「前作」などと言われていたことを思い出せば——映画作品=「邦画」として「形」になるのです。
先に、この曲が示す「邦画」が①恋愛映画であり②《反復》されてきたものであるということを確認しましたね。いわば「私」は、恋人がいずれ過去の存在としての「私」を「動画」に残したり、頭の中で「想像」したりして、「思い出」として《反復》することによって「邦画」となってしまうことを拒んでいるのです。
3.拒めない《反復》と「邦画」化
以上のように「私」は「動画」として残されることや、「思い出」の中で《反復》されることによる「邦画」化を拒否しています。この「私」の願いはかなうのでしょうか。残念ながら、否です。なぜか。その答えはこの歌の形式自体が語っています。
この歌の形式的な特徴は、とにかく歌詞の《反復》が多いことです。並立の意味をもつ助動詞の「たり」を使った「泣いたり笑ったり」という言葉。そして「思い出と私は違う今だけが華やぐ」という言葉をとにかく繰り返します。「思い出と私は違う今だけが華やぐ」——「今」という一回きりの経験を上位に置こうとすることば。これは、先に確認した通り、まさに《反復》を拒否する言葉です。しかし、このことば自体を歌は《反復》します。ここには、《反復》をめぐって内容面と形式面との間に矛盾が生じていることが分かります。
このような、歌の内容上の《反復》と歌の形式上の《反復》とを重ねつつ矛盾させる手法を、川谷さんは別の曲でも行っています。ゲスの極み乙女『YDY』です。この曲が《反復》をテーマにしているだろうことは、『邦画』の場合よりももっと露骨にあらわれています。ぜひ聴いてみてください。https://www.youtube.com/watch?v=iayhVN8RuH8
以下に、『YDY』の歌詞の一部を引用します。
歌詞の内容では「また8月にフラれるのは嫌だよ」として《反復》を拒否しつつ、歌の形式では「YDY」をとにかく《反復》する。すなわち、言葉の内容としては《反復》を拒否しているものの、歌が《反復》を強行するという形式によって、この人がおそらく「また8月にフラれ」てしまうだろうことが暗示されているのです。それがこの歌の切ないメロディーを生んでいます。
indigo la end『邦画』も、同じ発想によって構成されています。
つまり、「私」は《反復》、そして「邦画」となることを拒否しようとしていますが、この歌の形式は《反復》をもとに成り立っています。もっと言えば、私たちファンはこの曲をサブスクなんかで繰り返し聴くことで《反復》します。そして何より、この「邦画」化を拒否する「私」を歌った歌のタイトル自体が、すでに『邦画』なのです。「私」の一回性への望みは、叶いそうにありません。
4.まとめ
以上のように、indigo la end『邦画』は、《反復》をテーマにした曲でした。今回の要旨を繰り返します。
まず、今回の歌の内容から考えるに、「邦画」とは恋愛映画であり、サブスクやDVDなどによる《反復》がなされるものでした。それは、「前作」「今作」などの言い方からも分かるように、「私」の恋愛自体の暗喩にもなっています。
「私」は破局後、恋人に「動画」に残されたり、「思い出」として「想像」されたりして《反復》されることを拒んでいます。それは、いわば「邦画」になることを拒否していると言い換えることができます。
しかし、この歌は形式的にきわめて《反復》が多い。そして、その《反復》からなされるこの曲のタイトルは「邦画」です。「私」はその抵抗も空しく、『邦画』という曲として《反復》され続けていきます。川谷さん、なんて罪な男なんでしょう。「私」たちはこの曲をサブスクか何かで聴き《反復》することによって、共犯者にされていきます。
加えて言えば、実際の恋愛映画=「邦画」も、流行り廃りを繰り返しています。似たような(といえばかなり失礼ですが)印象を与えるような恋愛映画はずいぶんと多いような気がします。同じように、「私」の恋愛=「邦画」も、「今作」「前作」「前々作」……といった具合に、似たような経験を繰り返すのでしょう。ここにも、ある種の《反復》が想定されます。
考えてみれば、現代、ほぼすべてのものが情報で管理される社会になり、あらゆるものがデータ化しています。現代人は、スマホ片手にあちこちで写真を撮り、物や風景、一回きりであるはずだった経験をすぐにデータ化してしまう。そして後で見返し《反復》する。いや、もはや《反復》することを前提に動いていると言ってもいい。
「今の私を見て」と、「私」が《反復》を拒否、すなわち一回性を希求するということは、現代社会のあり方からしてかなり難しいと言わねばなりません。川谷さんがどこまで狙っていたのかはわかりませんが、《反復》を拒否する内容を形式上で拒否するこの『邦画』という曲は、一回きりの感動を忘れかけている現代の情報化社会という案外大きなものに対するメッセージ性を持っていると言えるかもしれません。