不完全な私たちは今日も誰かを踏みつけながら祈りを捧げる
眠れないので、好きな映画の話でもしようと思う。
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ものすごくうるさくてありえないほど近い
ちょっと昔の映画になるので、ネタバレありきでやらせていただく。
以下、リンク先からのあらすじ引用。
大切な人を失った悲しみ――誰にでも必ず訪れるそのことに、人はあまりにも無防備だ。覚悟した別れでも受け入れがたいのに、ましてそれが突然で理不尽な別離だとしたら――。
オスカーと父は、親子であると同時に親友だった。父は少しばかり繊細で生きることに不器用なオスカーを、その個性を壊さずに導いてくれる頼もしい師でもあった。そんな二人を優しく見守る母親。ところが――9.11が最愛の父を奪ってしまう。
オスカーは父が遺した一本の鍵に、最後のメッセージが込められていると信じ、鍵穴を探す旅に出る。鍵の入っていた封筒に書かれた文字に従い、ニューヨーク中の“ブラック氏”を訪ね歩くオスカー。やがて謎の老人が同行者となり、いつしかオスカーの辿った軌跡は、人と人とをつなぐ大きく温かい輪になっていく。
ついにオスカーは、鍵の真実とめぐり会うのだか――。
御存じの方もいるのではないだろうか。私はこれを「アスペルガー症候群の子どもが主人公の映画」として紹介された。
私自身もアスペルガーの当事者であるので、興味を持ったのはそこからだ。
けれど、実際に映画を観て、私はこれを「アスペルガー症候群がテーマの映画」とは思えなかった。
物語のキーは「アスペルガー症候群を持つ主人公」だけではない。
「9.11による父親の理不尽な死」「家族との折り合いがつかない老人」「大勢の人が大切な何かを失っていた」
映画を観終わって、私は「これは、理不尽と祈りの物語だ」と感じた。主人公の患う障害は「先天性の理不尽」であっただろう。
この物語に登場する大人たちは、決して「何も問題を抱えていない、順風満帆な人々」ばかりではなかった。
父親のように息子の気持ちに上手に寄り添えない母親、家庭との折り合いがつかなかった老人。たった今夫が出ていった最初のブラックさん。
「大勢の人が大切な何かを失っていた」。
それでいて、その殆ど全員が、オスカーの「調査探検」に協力し、オスカーの悲しみが報われるように祈っていた。
言ってしまえば、11歳の少年の、父親の思い出に縋った探検ごっこだ。
まさか、父親の残した鍵が異世界に通じる魔法の鍵だとか、金銀財宝が詰まった宝箱の鍵だとか、そんな御伽噺を真面目に信じる大人はいなかっただろう。
「お父さんが亡くなって悲しいのは分かるけれど、現実を見ようよ。天国のお父さんのために君にやれることは、健康な生活を送ってしっかり勉強をして幸せを掴み取ることだよ」というのが正論だろうし、正しいカウンセリングはそうかもしれない。
鍵は魔法の鍵なんかではなく、何の変哲もない普通の鍵だろう。残された鍵に「もう二度と会えないお父さん」の大きすぎる期待を託していたオスカーは、真実を知ってひどく落胆するだろう。
そんなことは、大人なら分かる。
それでも、大人たちは祈っていた。「オスカーが鍵の真実に辿り着いて、オスカーの旅路が何かを彼に齎しますように」と。
それは、大人たちがオスカーに対して「現実を見なさい」と説得できるだけの力を持っていなかった、ということかもしれない。彼が抱える障害に対しても、医学的に適切とされる接し方なんか誰も知らなかっただろう。
「大勢の人が大切な何かを失っていた」。
大人たちは無力だった。だから、祈るしかできなかった。
けれど、「大人たちが祈ってくれていた」ということは、確かにオスカーの心を動かしていた。前を向く力になっていた。
「大人たちがオスカーのために祈ってくれていた」という事実がなければ、オスカーは父の残した鍵がただの誰かの倉庫の鍵だと知って――もう二度と会うことができない父の託した夢が霧散して、耐えられなかったかもしれない。
さて、この物語の背景の部分を考えよう。
9.11のテロ行為はもちろん許されることではない。数えきれないほどの人が、オスカーと同じように深い傷を負った。
そして、「ではアメリカは、イスラム教国の人々を一切傷つけていないのだろうか?」と思考のスケールを拡げてみる。答えはノーだ。解り切っている。
「そもそも、争いなんてくだらないことをするべきではない。平和を選ぶべきだ」と考える人もいるだろう。もちろん、無駄な争いは避けるに越したことがない。
だが、掛け声だけで平和が実現できるならばとっくの昔に世界は平和になっているはずだ。争いは、そのどちらもが必要に迫られてやっている。
人類は平和を実現できない。人類は皆欠陥だらけで、自分にとって不都合なすべてに折り合いをつけて許すことはできない。
他人の事情にだって十分に理解も配慮もできない。偏見だらけで十分な知識がないことも多いだろう。
世界平和のために何かをする以前に、みんな自分の人生のことで手いっぱいだ。
私たちは不完全だ。私たちは争わずにはいられない。完璧な平和、完璧な解決を実現することなど到底できはしない。
だから、私たちは祈るのだ。
「私には一生懸命やってもこれだけしかできないけれど、どうかあなたが幸せになりますように」
そう、自らの無力に膝を折って祈るのだ。
最後に、私が好きなamazarashiの曲のワンフレーズを引用してこの記事を〆ようと思う。
「僕らは無力だ」と暗闇に祈るのが本当に無力とは信じないぜ
http://j-lyric.net/artist/a052b38/l028ff7.html
祈り/amazarashi
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