成長痛だと思うことにして生きていくよ

amazarashi/そういう人になりたいぜ

 「私を殺す気か」と力なく呟いた。四つの裏切りまでは、耐えられた。嘘が露呈するということは、縛られるものが減って身軽になるということだ。そう自分に言い聞かせて立ち上がった矢先だった。五つ目の裏切りですべてが決壊して、立ち上がれなくなった。そして、二、三日、潰れていた。涙がボロボロ溢れた。幸い仕事は休みだった。立ち上がれなかったので、飲み水を汲むのに窮した。

 世界は終わらない。今のところ、それは事実らしい。

 私たちがやるべきことは単純で、変わらない。まず、今を楽しむ。それができそうにないならば、未来が楽しいものになるように備える。基本的には、この二つだけだ。どちらもできなかった。立ち上がることができない身には一切の娯楽が苦痛であったし、それほどまでに余裕がないのだから「やらなければいけないことの山」に到底手を付けられない。

 私は、世界で誰かが幸運に見舞われたり、苦難に見舞われるというのは、基本的に乱数の結果だと思っている。その乱数を、努力や、戦略や、科学や、神仏の加護や、人徳がある程度補正できるにすぎないという価値観を持っている。

 ひとたび災害が起これば、善人も悪人も巻き込まれる。世界はそのようにできている。ゆえに、自分が結局生きるか死ぬの意思は、個人にゆだねられていなければならないと思う。そうでないならば、人間は乱数の奴隷に堕ちてしまう。

 ゆえに、私は「いい人として振舞う」ことに何らかのインセンティブを期待しているわけではない。それでも、

「あなたは頑張っている人だから、素敵な人だから、優しい人だから、幸せになるべき人だから」

 そう言ってくれる人たちのうちの、結構な数が、私を刺していく。それは今に始まったことではないと頭では言い聞かせていても、悲しかった。

 もちろんそれは全員ではなかったけれども、私が深く信頼を置いていた相手ばかりだった。信頼を置いたこと自体が正解だったのか不正解だったのかも分からなくなった。久しぶりに真剣に「世界なんか滅びてしまえばいい」と思った。


 そんなわけで、久しぶりに、悔しくて、悲しくて、慟哭して、おそらく人生にはこの続きである平穏な日常が平然と立っているのであろうということを、嫌悪した。

 慟哭して、疲れ果てて、寝潰れて、起きた昼過ぎ。

 仲がいいと言えばさほどではない、それでも何度か助けたことがある相手から、アマギフが送られてきた。

 「おつかれさまですよ。」とだけ添えられていて、私はまた嗚咽した。

 情けない話ではあるが、私は所謂「カリスマ性がある人間」ではない。一挙一動に人が群がるというようなスターではない。

 そんな自分に居場所があるということが、どれほど尊いことか。そんな自分を覚えてくれていた人がいるということが、どれほど尊いことか。

 そして、過去の自分は、確かに「覚えてくれたようなこと」をしていたのだ、自分なりに居場所を創っていたのだということに、何度も何度も嗚咽した。

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